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東京地方裁判所 昭和59年(ワ)348号 判決 1989年10月03日

《目  次》

当事者の表示

主文

事実

第一 当事者の求める裁判

一 請求の趣旨

二 請求の趣旨に対する答弁

第二 当事者の主張

一 請求原因

1 当事者について

2 教科書検定制度の変遷

3 現行教科書制度の概要

4 「新日本史」に対する従前の検定の実態

5 昭和五五年の申請に係る検定処分の経過と内容

6 昭和五七年における正誤訂正申請不受理の措置

7 昭和五八年の申請に係る検定処分の経過と内容

8 本件検定処分等の違憲・違法性

9 公務員の故意又は過失

10 損害

11 結論

二 請求原因に対する認否

第三 証拠<省略>

理由

第一教科書検定制度と本件各検定処分に至るまでの経緯

一原告の経歴及びその著作

二本件各検定処分に至るまでの経緯

三教科書検定制度の沿革

第二現行教科書検定制度の概要

一教科書の意義

二教科書検定の権限

三教科書検定の組織

四本件各検定処分当時の検定基準

五教科書検定の手続と運営

第三本件各検定の経過

一昭和五五年度検定について

二昭和五七年度正誤訂正申立てについて

三昭和五八年度検定について

第四教科書検定制度の違憲違法性

一教育の自由・自主性違反の主張について

二憲法二一条違反の主張について

三憲法二三条違反の主張について

四法治主義違反の主張について

五憲法三一条違反の主張について

第五本件検定処分における適用違憲の主張について

第六本件検定処分における検定権限濫用の違法

一原告の主張の要旨

二当裁判所の総論的判断

三昭和五五年度検定における裁量権濫用の違法

1 親鸞及び「日本の侵略」に関する記述について

2 草莽隊に関する記述について

3 南京事件に関する記述について

四昭和五八年度検定における裁量権濫用の違法

1 朝鮮人民の反日抵抗に関する記述について

2 日本軍の残虐行為に関する記述について

3 七三一部隊に関する記述について

4 沖縄戦に関する記述について

五昭和五七年度正誤訂正申請について

第七損害賠償義務

第八結論

原告

家永三郎

右輔佐人

保坂廣志

ほか五名

(別紙輔佐人目録記載のとおり)

右訴訟代理人弁護士

森川金寿

ほか四二名

(別紙訴訟代理人目録(一)記載のとおり)

被告

右代表者法務大臣

後藤正夫

右訴訟代理人弁護士

秋山昭八

ほか三名

(別紙訴訟代理人目録(二)記載のとおり)

右指定代理人

飯村敏明

ほか一〇名

(別紙指定代理人目録記載のとおり)

主文

一  被告は、原告に対し、金一〇万円及びこれに対する昭和五九年二月一一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを二〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二〇〇万円及びこれに対する昭和五九年二月一一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は、原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者について

原告は、昭和一二年、東京帝国大学文学部を卒業し、爾来、日本史の研究に従事し、昭和一六年以降新潟高等学校教授を、昭和一九年以降東京高等師範学校教授をそれぞれ歴任し、昭和二四年の学制改革以後昭和五二年まで多数の教員志望者を擁する東京教育大学教授として歴史教育に携わり、昭和五三年から今日まで中央大学教授の地位にある歴史学者である。その間、原告は、昭和二三年には「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞し、昭和二五年には論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得た。その著書には、右のほかに「日本道徳思想史」、「日本近代思想史研究」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「戦争と教育をめぐって」、「歴史と責任」、「太平洋戦争」など日本史及び歴史教育に関するもの数十冊がある。また、原告は、昭和二一年に戦後最初の国定の日本史教科書が編纂されるに当たって、文部省の編纂委員に任命され、「くにのあゆみ」の編纂に従事し、昭和二七年以降は、株式会社三省堂(以下「三省堂」という。)発行の高等学校用検定教科書「新日本史」の執筆・改訂を行い、高等学校における歴史教育にも尽力してきたものである。

被告は、教育行政を所管する行政機関として文部大臣を置き、文部大臣は、国の教育行政を分担管理する主任の大臣として(国家行政組織法五条)、文部省の所管事務(文部省設置法五条参照)を統括し、職員の服務について、これを統督する地位にあり(国家行政組織法一〇条)、主任の行政事務について、法律若しくは政令を施行するため、又は法律若しくは政令の特別の委任に基づいて、文部省令を発する権限を有し(同法一二条一項及び四項)、右の一般的権限のほか、学校教育法その他により、教科用図書の検定等の権限を有するものである(学校教育法二一条、四〇条、五一条等)。

2  教科書検定制度の変遷

(一) 教科書検定制度とは、学校教育において教材の一つとして使用される教科書の発行に関し、一般図書とは異なり、これを教育行政機関による規制のもとに置く制度である。それは、教科書発行権を国家が独占するいわゆる国定制とも異なると同時に、一般図書と同様に発行の自由を認める自由発行制とも異なっている。

(二) 我が国においては、明治五年の「学制」発布に始まる近代的学校制度の導入当初においては、すべての段階の学校に関して教科書の自由発行制が採用されていたが、明治政府の教育統制強化の背景のなかで、明治一四年以降小学校の教科書について届出制が、明治一六年以降小学校及び師範学校の教科書について文部省による認可制が、また明治一九年以降は、小学校、中学校及び師範学校の教科書について文部省による検定制がそれぞれ導入された。そして、明治三六年以降は小学校教科書が国定制(一部の教科については例外的に検定制を併用)になり、戦時中の昭和一八年以降は中等学校及び師範学校の教科書についても国定制に移行した。他方、戦前においても実業学校の教科書、盲学校・聾唖学校の教科書は、地方長官による認可制が採られており、学校の種類によって規制の方式は一様ではなかった。しかし、このように戦前の教科書国定制・検定制・認可制などの教科書統制制度は、国策遂行の手段としての教育に対する内容統制手段として重要な役割と機能を果たしてきたのである。

(三) 戦後、わが国の教育制度は、その理念、制度において、根本的な改革が行われた。憲法は、教育を受ける権利を国民の人権として保障し(憲法二六条)、この権利の実現のために、教育基本法を初めとする教育関係法が制定された。教育の自主性・自律性の確保(教育の自由の保障)、教育行政の教育内容への権力的介入の排除(教育基本法一〇条等)、その他民主的な教育法制度の確立など、教育を受ける権利の実現のための諸保障が準備された。教科書検定制度は、学校教育法のなかに存置されたが、検定の教育制度上の前提は全く異なるものであった。

(四) 右のように戦後制定された学校教育法(昭和二二年法律第二六号)は、教科書国定制を排し、初等、中等段階の学校教科書をすべて「監督庁」の検定のもとに置いた。ここに「監督庁」とは都道府県教育委員会を指すものであったが、新聞出版用紙が極度に不足し、これが国家機関による割当制のもとに置かれている間は、「当分の間」、文部大臣が教科書検定権を行使するものとされた(学校教育法一〇六条)。しかし、新聞出版用紙割当制が昭和二六年に撤廃された後も文部大臣は検定権を超法規的に行使し続け、この状態が昭和二八年八月の学校教育法一部改正によって追認されることにより、文部大臣の検定権が恒久化されて現在に至っているのである。

(五) 学校教育法の下での検定制度の第一回目の制度内容の大幅な変更は、昭和三〇年の政権党からの教科書攻撃を契機として行われた。

(1) 昭和三〇年八月、日本民主党は、「うれうべき教科書の問題」と題するパンフレットを公刊して、宮原誠一(東京大学教育学部教授)、宗像誠也(東京大学教育学部教授)、周郷博(お茶の水女子大学教育学部教授)、日高六郎(東京大学文学部教授)、長田新(広島大学教育学部教授)などわが国有数の学者の定評のある社会科教科書を「偏向」した「赤い教科書」であると非難し、その直後の同年九月、文部省は、検定を「厳重にする」ことを理由に検定審議会委員の入替えを行った。そして、実際にも、この時以降、「偏向」というレッテルを貼られ不合格になる教科書が多くなった。

(2) 昭和三一年には、「検定に合格する見込がないと認められる図書」に対する検定の門前払い、教科書出版業者の登録拒否、その事業場への立入検査などの権限を文部大臣に与えること等を内容とする教科書法案が国会に提出された。同法案は、教育の国家統制を図るものとして、学者・教員その他の世論の強い批判を浴びて廃案となったが、文部省は、それにもかかわらず、同法案の目的を実質的に実現するため、教科書調査官制度を同年秋から発足させ、従来からあった調査員(非常勤)に加えて、常勤の文部省職員を教科書調査官として、教科書の内容審査に当たらせることとし、検定強化の態勢を整えた。

(3) 教科書調査官制度の導入以来、個々の検定処分が厳しくなった(条件付合格に際して拘束力のある条件を付すという運用も、それ以後確立された。)ばかりでなく、調査官たちの研究成果に基づき検定基準も改悪されて、教科書の内容を学習指導要領と一致させることが検定基準に初めて盛り込まれた(昭和三三年告示第八六号による検定基準の全面改正〔高等学校学習指導要領については、昭和三五年一〇月の全面改正〕による。ちなみに従前の昭和二七年告示第八八号による検定基準においては、教科書の内容が学習指導要領と対比して過不足があっても差し支えない旨が明記されていた。)。それまで単に指導助言文書として取り扱われていた学習指導要領に告示としての形式を与え、これに伴って学習指導要領は法規であって法的拘束力を有するとの行政解釈がにわかに高唱されるようになったのが、この段階であった。

このように、教科書調査官制度を導入して戦前の図書監修官制度を実質的に復活させ、法規であるとする学習指導要領との一致を要求して検定基準を改悪し、これらの制度のもとで、検定処分は飛躍的に強化された。

(六) 検定制度の戦後第二回目の大幅な変更は、昭和五二年の検定規則の制定であった。検定規則は、このとき戦後初めての全面改正を受けたのであるが、検定申請の機会を文部大臣が制限することができるとする法令上の根拠は、戦前戦後を通じてこのとき初めて導入されたものである。

また、従前、検定基準の法的位置付けは、明確でなかったところ、右検定規則三条において初めて省令上の根拠が与えられた。

(七) 昭和五四年一〇月、旬刊「世界と日本」に「新憂うべき教科書問題」が掲載され、昭和五五年一月から「自由新報」が、「いま教科書は―教育正常化への提言」の連載を開始したこと等を契機として「偏向教科書キャンペーン」が開始され、教科書問題が大きな社会問題となった。そのような中で、文部省は、偏向教科書キャンペーンに便乗する形で従来以上に検定を強化するようになり、昭和五五年に検定申請を行った高等学校用「現代社会」及び「日本史」の各教科書に対しては、何百箇所にも及ぶ修正意見、改善意見が付されるに至った。その検定で指摘された箇所は、愛国心、防衛問題、平和問題、国民の権利と義務、公害問題、福祉問題、原子力発電所と安全問題等いずれも極めて重要な問題が中心であった。また、検定手続の面では、極めて多くの箇所に修正意見、改善意見が付され、長時間にわたりこまごました指摘が繰り返されるようになり、そのため見本本の印刷が遅れ、教科書としての発行が事実上不可能となりかねない事態となっている。

更に、昭和五六年の検定が、日本の帝国主義的侵略や戦争犯罪に関する記述を隠蔽し又は弱める方向でなされ、そのことを新聞・放送が報じたことにより、日本国内のみならず中国・韓国を中心とするアジア近隣諸国からも大きな批判が加えられ、教科書問題は国際問題にまで発展した。この点については、外交的には「政府の責任で是正する。」ということで決着がつけられた。

(八) 以上の変遷に関する原告の主張の詳細は、別添(一)(第一章第一節第二戦後教育改革と教科書検定制度、同節第三 教育行政全体の「反改革」と検定強化の実態)記載のとおりである。

3  現行教科書制度の概要

(一) 法律上の根拠

昭和二八年八月の法改正により学校教育法二一条一項の条文は、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作権を有する教科書を使用しなければならない。」となった(同条項は、同法四〇条により中学校に、五一条により高等学校に、七六条により特殊教育にそれぞれ準用されている。)。

この条項が、文部大臣の教科書検定権限を根拠付けるいわゆる行政作用法上の唯一の規定である。これ以外に検定の意義、趣旨又はその限界を定める法律上の規定は一切存在しない。実質的な制度内容は、すべて文部省令以下の行政立法によって規定されている。

(二) 検定規則の内容

教科書検定制度に関する行政立法の基本は、教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号。以下単に「検定規則」という。)である。

右規則によれば、「検定の基準は、文部大臣が別に公示する教科用図書検定基準の定めるところによる。」(三条)ものとされ、右条項に基づき、義務教育諸学校教科用図書検定基準(昭和五二年文部省告示第一八三号)及び高等学校教科用図書検定基準(昭和五四年文部省告示第一三四号)が定められており、右各告示を補充するものとして、それぞれの実施細則(昭和五二年九月二二日文部大臣裁定及び昭和五四年七月一二日文部大臣裁定)が定められている。

検定基準は、いずれも第一章総則において、検定の観点が「以下に掲げる基本条件の各項目を満たしているかどうか、また必要条件の各項目に照らし適切であるかどうかを審査するもの」であることをうたい、第二章において、基本条件として、①教育基本法・学校教育法に定める教育の目的・目標との一致、②学習指導要領の示す当該教科の目標との一致、③政治・宗教についての取扱いの公正の三項目を掲げ、第三章において、各教科毎に必要条件として、①内容の範囲、②内容の程度、③内容の選択と扱い、④組織・配列・分量、⑤正確性、⑥表記表現、⑦体裁、⑧創意工夫の八項目を掲げている。

そして、右基本条件の②の項目において学習指導要領所定の教科の目標との一致を求めるほか、右必要条件においても、①内容の範囲の項目において学習指導要領所定の内容との一致、④組織・配列・分量の項目において学習指導要領所定の標準単位数との対応、⑧創意工夫の項目において学習指導要領の目標達成の観点を挙げるなど、学習指導要領(高等学校については「昭和五三年文部省告示第一六三号高等学校学習指導要領」を指す。)との関連付けを強調しており、右検定基準に援用されることにより学習指導要領も検定における審査基準の一部を構成しているといえる。

検定には、「新たに編修された図書について行う」新規検定と、「検定を経た図書の改善を図るために加えられた個々の改訂箇所について行う」改訂検定との二種類があり(検定規則四条)、検定申請は図書の著作者、発行者のいずれからもすることができる(同六条一項)が、各年度において申請を行うことができる図書の種目及び期間を制限する権限が文部大臣に与えられている(同六条四項)。文部大臣は、別に発した告示により各教科科目毎の検定受理機会をおおむね三年に一回に制限している。

そして、「新規検定」、「改訂検定」のいずれについても、検定の審査過程としては、「原稿本審査」、「内閲本審査」及び「見本本審査」の三段階を経るものとされている(検定規則五条)。右三段階のうち、「原稿本審査」がもっとも基本的なものであるが、この審査は、文部大臣の諮問機関である教科用図書検定調査審議会(以下第二において「検定審議会」という。)の答申に基づいて行われる(同九条一項)。この段階で、文部大臣は、単純な合格・不合格の処分のほか、修正意見つきの合格処分、すなわち修正意見に従うことを条件とする合格処分をすることができ(同九条二項)、実際例としては、この条件付合格処分が圧倒的に多い。この検定審議会は、教科用図書検定調査審議会令(昭和二五年政令第一四〇号)に基づいて設置されているものであり、実際上原稿本審査の衝に当たるのは、右審議会の中に置かれた教科用図書検定調査分科会の下部機構に当たる教科別部会と、更にその下部機構に当たる科目別小委員会である(高等学校の日本史教科書の場合は、第二部会日本史小委員会がこれに当たる。)。

次の「内閲本審査」は、右の修正意見に従った修正が施されているか否かを審査、認定する手続であり(検定規則一三条二項)、この審査段階については検定審議会の関与は必要とされていない。但し、修正意見それ自体に対し検定申請者から意見(異議)の申立てがあれば、文部大臣は、検定審議会の議を経て、当該修正意見を取り消すか否かを決するものとされている(同一〇条二項)。修正意見に即した修正が施されたと認定する主体は、実質的には教科書調査官であり、この点をめぐり著作者、発行者の側と見解が対立することが多く、「内閲本審査」の過程は、実務上、「内閲調整」とも呼ばれている。

最後の「見本本審査」は、前の二段階と異なり、「図書として必要な要件を備え完成されたと認め」られるかどうか、すなわち主として図書の装丁・印刷等の外観について審査するものであり(検定規則一四条二項)、この段階についても検定審議会は関与しない。

なお、検定規則においては、検定済の図書についても、「誤った事実の記載があることを発見したとき」など一定の場合に、文部大臣の承認を受けて「正誤訂正」をすることを発行者に対し義務付けている(同一六条、一七条)が、同条項は、三年に一回と制限された正規の検定の機会のほかに教科書に対し修正を施す必要を満たすため、また、しばしば検定済教科書に対し他の行政機関や財界から寄せられた批判に基づき、文部省が追加的な修正を要求する際の根拠規定として一般的には緩やかに解釈運用されている。

(三) 検定手続の問題点

(1) 検定権者に対する制約の欠如

検定規則は、検定申請者に対しては、申請の機会を制限したり(同六条四項)、原稿本審査終了後「内閲本」提出までの期間を制限したり(同一三条一項)、内閲本審査終了後「見本本」提出までの期間を制限したり(同一四条一項)、原稿本審査段階で付せられた修正意見に対する意見申立ての期間を制限したり(同一〇条一項)、様々な制限を一方的に課しているが、検定権者に対しては、原稿本審査、内閲本審査及び見本本審査の各期間についてなんらの制限を設けていない。

教科書は文部大臣の検定に合格しただけではこれを学校の現場において自由に使用することができる状態になるわけではなく、採択手続を経なければならないのであるが、この関係を規制するものとして「教科書の発行に関する臨時措置法」(昭和二三年法律第一三二号)がある(小・中学校用教科書に関しては、このほか「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(昭和三八年法律第一八二号)第三章により特別な採択規制がある。)。右臨時措置法は、採択を求めようとする教科書についての書目の届出制(同法四条)、教科書展示会制度(同法五条)等を定めており、書目の届出の時期も、展示会への教科書見本の出品期限も制限されている(同法施行規則八条)。これに対し、検定権者には審査期間の制限が全く設けられていないために、申請者はいわば教科書を人質に取られた状態で検定権者の各種意見に対応せざるをえないのである。

このように、申請者に比して検定権者に対する制約が欠如していることが、修正意見の趣旨の解釈を巡って申請者と教科書調査官との間でされる「内閲調整」の過程での議論が対等なものとなり得ず、また、本来拘束力のないはずの改善意見が事実上強制力を持つ結果をもたらす原因となっている。

(2) 改善意見の実質

検定規則上、文部大臣は、合格処分の条件として修正意見を付することができる(九条二項)が、改善意見は、これとは区別されるもので、本来は単なる行政指導にすぎないものである(「改善意見」という用語及びこれが「改善を加えることが適当と判断される箇所について付する」ものであることは、昭和五四年一〇月一七日付各教科書発行者宛文部省初等中等教育局長通知「教科用図書検定規則の実施の細目」においてのみ明らかにされている。)。

しかし、実際には、文部省の過剰介入として社会的批判を浴びやすい意見は、改善意見として付せられ、これを「内閲調整」の過程で事実上強制するという手法が最近においては好んで用いられている。これは、一方において統制の実をあげ、他方においてこれに対する社会的批判を申請者の自由意思による修正であると言い抜けるための官僚的知恵である。

検定申請者は、原稿本審査の結果を伝達するに際し文部省から付せられる改善意見について、これを拒否する場合には、一つ一つの意見に対して「拒否理由書」なる文書を提出することを義務付けられている。改善意見それ自体が法令上の根拠を持たないものである以上、「拒否理由書」の提出を義務付ける法令上の根拠もまた存在しないのであるが、運用上「拒否理由書」を完備しないままに提出された内閲本は、適式な内閲本審査申請として取り扱われず、したがって、その追完があるまでは内閲本審査は、いつまでも終了しないものとされることにより「拒否理由書」の提出が義務付けられる仕組である。提出された「拒否理由書」の内容が教科書調査官の承服し得ないものであるときも同様であり、検定申請者は、教科書調査官が承服するまで「拒否理由書」を追加するか、さもなければいかに不本意でも改善意見に従うかのいずれかを選択しなければならないのである。

(3) 検定基準の包括性

検定基準は、規定の内容が多面的であって、教科書の内容と外観、質と量にかかわるすべての側面を規制の対象としており、しかも、一つ一つの規制条項はすべて包括的・多義的・抽象的であって、どのような意見もなんらかの条項に基づく意見としてこじつけることのできる性質を持ち、あらゆる角度から無制限に検定権者が介入することを可能ならしめている。

(4) 教科書調査官の実権

文部大臣が検定権限を行使するに際し、原稿本審査の段階では検定審議会の議を経ることが検定規則上要請されているが、検定審議会の機能は、各教科書原稿についてあらかじめ教科書調査官が作成した調査意見書・評定書を追認し、これに多少の補充をする程度のものであって、教科書調査官の作業をチェックする役割は全く果たしていない。また、調査意見書・評定書は、教科書調査官のみならず検定審議会自体の補助者である調査員(一点の教科書につき概ね、大学の教員一名と現場教師二名の調査員がその都度委嘱される。)からも提出されるが、これには全く重きが置かれていない。

検定審議会の作成名義に係る教科用図書検定審査内規(昭和五三年六月一五日審議会決定)及び同実施細目(同)によれば、原稿本審査における合否の分かれ目は、一〇〇〇点満点中八〇〇点を取るかどうかにかかることが窺われるが、採点の前提は、あくまでも個々の記述の「欠陥」を何点と評価するかにかかっている。そして、この評価は、あげて教科書調査官に委ねられているのであり、「内閲調整」の主体が教科書調査官にあることと合わせてみると、検定手続上の実権は、教科書調査官にあるといって差し支えない。

(四) 以上の各点に関する原告の主張の詳細は、別添(一)(第一章第一節第四諸外国の教科書に対する法規制、同節第五 現行教科書検定制度の内容と問題点)及び別添(二)(第二章第一節三 いわゆる八〇年代検定と本件教科書に対する検定の全体的特徴)記載のとおりである。

4  「新日本史」に対する従前の検定の実態

(一) 原告の教科書執筆の動機と執筆に当たっての配慮

(1) 原告は、戦前世代の一人として、小学校では天照大神・神武天皇から始まる国定教科書により、また、中学校でも国定教科書同様の画一化された検定教科書により歴史教育を受け、大学で日本史を専攻し、その後表現の自由が厳しく制約される中で研究・教育に従事し、敗戦を迎えた。原告は、これらの体験を通じ身をもって、天皇絶対、国家万能、戦争賛美、民主主義の否定等を内容とする戦前教育―特に歴史教育―が国民を無謀な侵略戦争に駆り立て、その結果幾百万の同胞を死に追いやったことを痛感するとともに、無謀な戦争を阻止するために何一つ有効な働きをなし得なかった自己の無力さを深く反省し、日本史の研究・教育に従事する者として、日本国憲法前文でうたっている「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやう」にする決意を新たにした。そして、原告は、右のような決意に基づき、敗戦直後に、新制度の下で発足するであろう中等学校の教科書のために、自己の能力の及ぶ限り良心的な教科書を作ろうとして「新日本史」を執筆したが、当時は国定教科書を使用する方針が採られていたので、教科書としては使用できず、昭和二二年に一般用図書として公刊した。その後、原告は三省堂から高等学校用日本史教科書の執筆を依頼されたため、右「新日本史」を台本とし、戦後数年の間に長足の進歩を遂げた学界の成果と原告の研究成果に基づいて、これに全面的な改訂・増補を加え、高等学校用日本史教科書「新日本史」を執筆した。

(2) 原告は、右「新日本史」執筆に際し、次のような点に配慮を加えた。

第一に、教育は、学問の成果に基づき真実に立脚したものでなければならないとの観点から、客観的史実を尊重し、正視するとともに、日本が犯した過ちは率直にこれを認め、再び同じ過ちを繰り返さないような態度を持つことができるようにした。

第二に、これまでの歴史教育がただ事実を数多く覚えるという傾向にあったのに対し、一般国民として必要な教養という観点から、歴史の大筋をその時代の歴史的特質を踏まえて的確に理解できるよう記述の対象を精選した。

第三に、日本国憲法、教育基本法の理念、すなわち国民主義、平和主義、基本的人権の保障の理念を配慮して執筆に当たった。

第四に、それまでの日本史の教科書が政治権力者中心の視野の狭い政治史中心のものであったのに対し、政治史も踏まえると同時に、生活史、文化史も等しく重視した。

(二) 「新日本史」に対する検定の経緯

(1) 原告は、昭和二七年に「新日本史」を高等学校用教科書として検定申請したところ、一たんは不合格となったものの、再度の申請で合格し、昭和二八年度から「新日本史」は教科書として用いられることになった。その後、昭和三〇年に改訂申請したところ、二一六項目にわたって検定意見が付されたうえ条件付合格となった。昭和三一年度申請において不合格となったが、昭和三二年度に再度検定申請したところ、多数の項目にわたって検定意見が付されたうえ条件付合格となった。

(2) 原告は、右のような検定を経験する中で、教科書検定制度が表現の自由、学問の自由を侵害するものであることを実感していた。また、検定強化により多くの良心的な教科書執筆者が教科書執筆を断念するようになった中にあって、より良い教科書執筆を続けることが日本史の研究・教育に従事する自己の責務であると考え、良心的な教科書を作るべく努力してきた。しかしながら、検定制度が存することから、自己の学問的良心に基づいた記述をしても検定により不合格になることが明らかと考えられる場合は、最初に教科書を執筆するに当たって自己規制せざるを得なかった。

(3) 原告は、昭和三七、三八年度の検定を受けた時点で、これ以上検定制度の違憲・違法性を看過することはできないと考えるに至り、昭和四〇年に、昭和三七年度検定での不合格処分と昭和三八年度の条件付合格処分における不当な修正指示とについて国家賠償法に基づく損害賠償請求訴訟(いわゆる「第一次訴訟」)を提起し、次いで昭和四二年には、同年いわゆる四分の一改訂で不合格となった三件六箇所について不合格処分取消訴訟(いわゆる「第二次訴訟」)を提起した。右第一次訴訟は、昭和四九年七月一六日、東京地方裁判所民事第三部(裁判長高津環)において、昭和六一年三月一九日、東京高等裁判所第五民事部(裁判長鈴木潔)においてそれぞれ判決が言渡され、現在最高裁判所に係属中である。右第二次訴訟は、昭和四五年七月一七日、東京地方裁判所民事第二部(裁判長杉本良吉)において原告勝訴の、昭和五〇年一二月二〇日、東京高等裁判所第一民事部(裁判長畔上英治)において控訴棄却の、昭和五七年四月八日、最高裁判所第一小法廷において原判決破棄差戻のそれぞれ判決が言渡され、現在東京高等裁判所第八民事部に係属中である。

(三) 右(一)(二)に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第一節一 本件検定前の経過)記載のとおりである。

5  昭和五五年の申請に係る検定(以下「昭和五五年度検定」という。)処分の経過と内容

(一) 検定処分に至る経緯

(1) 原告は、その執筆に係る高等学校用日本史教科書「新日本史」の原稿について、昭和五七年度以降に使用されるべき教科用図書として、昭和五五年九月五日付で発行者たる三省堂を通じて、文部大臣に対し、検定申請を行った。原稿の内容が従前の教科書の全面改訂であるため、検定の種類は、「新規検定」であった。

右原稿に対する原稿本審査での処分は、昭和五六年一月二六日付でなされたが、その内容は、約四二〇項目にわたる修正意見及び改善意見を付した上で合格とする条件付合格処分であった。右修正意見及び改善意見の伝達は、教科書調査官から口頭で同年二月二日及び同月三日の両日にわたり合計約一一時間をかけて行われた。

(2) 原告は、三省堂を通じ、同年三月九日付で内閲本を文部大臣に提出し、その際、改善意見中承服し難い部分に関する「拒否理由書」をも提出した。修正意見については、原告は、検定規則所定の意見の申立てをしたところ撤回された一項目を除く総てについて、原記述に最小限の修正を施すことによって対応した。

これに対する「内閲調整」は、教科書調査官と原告ないし三省堂編修担当者との間で、第一次(同年三月二三日、二四日、二五日)、第二次(同年四月二〇日、二一日)、第三次(同月二七日)、第四次(同月三〇日、同年五月四日、六日)、第五次(同月一二日、一三日)にわたって行われ、同月一六日に至ってようやく内閲本審査終了となった(なお、原告は、同年四月二〇日に改善意見に対する再度の「拒否理由書」の提出を余儀なくされている。)。

(3) 右の経緯にみるとおり、内閲本審査の終了が異常に遅れた結果、その後直ちに見本本の印刷に取りかかったにもかかわらず、見本本審査が終了となったのは、教科書展示会開催の二日前である同年七月八日のことであった。

(4) 右(1)ないし(3)に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第一節二2昭和五五年度検定)記載のとおりである。

(二) 検定処分の内容

被告は、以下のとおり、原告の原稿本の記述に対し、修正意見及び改善意見を付し、修正意見については、これを合格の条件とすることによって原告の意思に反する記述の変更を強制し、改善意見については、内閲本審査段階においてこれに固執し、繰り返し「拒否理由書」の提出を強いて記述の変更を事実上強制しようと試み、これらによって原告に対し著しい精神的苦痛を被らせた。

(1) 新仏教の出現(原稿本七七頁)

① 原稿本の記述

さらに重要なのは、新仏教の開祖たちがみな、現実の人間世界を超えた高次元の精神的境地に到達することにより、これまで国家権力や支配層のための現世利益祈願に奉仕してきた旧仏教の姿勢を根本的に否定し、宗教の世俗勢力にたいする自主独立の立場を明白にしたことであった。

そのために、かれらは権力と結びついていた旧仏教教団の憎しみをかい、法然・親鸞らは朝廷から弾圧をうけたが、親鸞はこれにたいし、堂々と抗議の言を発して屈しなかった。

② 被告の改善意見

原告の右記述について、朝廷の弾圧に対し親鸞が「堂々と抗議の言を発して屈しなかった」との部分を変更せよという趣旨の改善意見が付された。

右改善意見の理由は、「親鸞が教行信証の中で朝廷を批判しているのは、後日になって当時を追憶する中でそう述べているにすぎないのに、原稿本の記述はあたかも親鸞が弾圧を受けたときに朝廷批判を行ったように誤解されるので表現が不適切である」というのである。

③ 原告の対応

原告は、右改善意見に対し、昭和五六年三月九日付で拒否理由書を提出し、その中で、古田武彦の研究成果により問題の教行信証の後序の一節は朝廷の弾圧のさなかに作成された抗議文を挿入したものであることが明らかにされており、これを否定するに足りる史料や学説が存在しないことを指摘した。しかし、教科書調査官は、第一次「内閲調整」の際も引き続き右改善意見に固執し、原稿本の記述の「親鸞は」と「これにたいし」の間に「流されたのちも」の一句を挿入するように要求した。

そこで、原告は、同年四月一四日付で再度拒否理由書を提出し、教科書調査官の要求する字句を挿入することは、問題の焦点をぼかし、旧仏教と違って鎌倉新仏教が有した反権力的特質を生徒に理解させる上でかえって適切でないことを指摘した。

その結果、改善意見が撤回され、原稿本の記述は、そのままの形で教科書となることとなった。

④ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第二 「親鸞」の記述への昭和五五年度検定)記載のとおりである。

(2) 草莽隊(原稿本二〇〇〜二〇一頁)

① 原稿本の記述

朝廷の軍は年貢半減などの方針を示して人民の支持を求め、人民のなかからも草莽隊といわれる義勇軍が徳川征討に進んで参加したが、のちに朝廷方は草莽隊の相楽総三らを「偽官軍」として死刑に処し、年貢半減を実行しなかった。朝廷による新政府の出現に期待をかけていた農民は、それが必ずしも期待どおりのものでないことを知り、幕末以来の農民一揆の波が明治にはいってからもつづき、一八六九(明治二)年にはとくにたかまった。

② 被告の修正意見

右原稿本の記述に対し、「年貢半減」の方針を示した主体を「朝廷の軍」とした部分を再検討せよとの修正意見が付された。

修正意見の理由は、「朝廷は年貢半減を約束していない。相楽総三が勅諚を得た上で年貢半減の方針を打ち出したとする史料は不確実なものである。この記述ではあたかも朝廷が自ら約束しながら実行しなかったように読める。」というのである。

③ 原告の対応

原告は、右修正意見に対し、「内閲調整」の過程で、相楽総三らの「赤報隊」が官軍の一部であり、年貢半減の方針は同隊が勅許を得て発表したものであることについては学界に異論がなく、年貢半減を朝廷の軍としての約束と表現することは妥当であると主張したが、教科書調査官の容れるところとならず、後記④のとおり記述を変更せざるを得なかった。

④ 変更後の記述

徳川氏追討の軍には、人民のなかから草莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札に掲げて人民の支持を求めたが、朝廷方は進軍途中の相楽らを「偽官軍」として死刑に処した。年貢半減は実行されず、新政府の出現に期待をかけていた農民は、それが必ずしも期待どおりにならないことを知った。幕末以来の農民一揆の波が明治にはいってからもつづき、一八六九(明治二)年にはとくにたかまった。

⑤ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第三 「草莽隊」の記述への昭和五五年度検定)記載のとおりである。

(3) 南京大虐殺(原稿本二七六〜二七七頁)

① 原稿本の記述

〔本文〕

中国では、西安事件をきっかけとして、国民政府と共産党の抗日統一戦線が成立し、日本の侵略に対抗して中国の主権を回復しようとする態度が強硬にあらわれてきた。

一九三七(昭和一二)年、蘆溝橋の衝突をきっかけとして、日本と中国とは全面的な交戦状態にはいった(日中戦争)。日本軍は首都南京その他の主要都市や主要鉄道沿線などを占領し4、中国全土に戦線をひろげたが、蒋介石の国民政府は重慶に移り、イギリスなどの外国の援助をうけつつ、共産党の第八路軍とともに、抗戦をつづけた。

〔脚注〕

4 南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシテイー)とよばれる。

② 被告の意見

(イ) 右原稿本の〔脚注〕の記述に対し、修正意見が付された。意見の趣旨は、「このままでは、占領直後に、軍が組織的に虐殺をしたというように読みとれるので、このように解釈されぬよう表現を改めよ。」というものであり、更に、具体的には「多数の中国軍民が混乱にまきこまれて殺害された。」と記述して、殺害の主体に言及しないようにするか、あるいは、「混乱のなかで、日本軍によって多数の中国軍民が殺害されたといわれる。」と記述して、日本軍の行為であるというのが単なる伝聞にすぎないことを明らかにして、日本軍の行為であるとの評価を避け、かつ、それが「混乱のなか」での出来事であったことに必ず言及せよ、というものであった。

(ロ) 右原稿本の〔本文〕中の「侵略」という用語に対し、改善意見が付された。意見の趣旨は、「『侵略』という言葉は否定的な価値評価を含む用語であり、自国の行為につき、このような否定的な価値評価を含む言葉を教科書の中で用いることは、次の世代の国民に対する教育上このましくないので、例えば『武力進出』というような言葉を用いるべきである。」というものであった。

③ 原告の対応

(イ) 修正意見については、教科書調査官が、これを主張して譲らないので、原告は、やむをえず原稿本の記述を後記④のとおり変更した。

(ロ) 改善意見に対しては、原告は、昭和五六年三月九日付の拒否理由書の中で、日本による中国「侵略」は客観的事実であって、単なる評価ではないから修正しない旨を申し述べたが、教科書調査官は、日本のみが中国を侵略したのではないといってこれを容れず、第一次内閲調整の際も引き続き改善意見に固執した。

そこで、原告は、同年四月一四日付の拒否理由書の中で、国際法思想においていわゆる「戦争の違法化」が確立した第一次世界大戦以降の時期の侵略とそれ以前の侵略とを同じ表現にしなければならない必然性はないこと、あるいは「侵略」を「侵略」と教えることにより、祖国の誤りを正視し、再び過ちをくり返させないよう自戒することこそが、真の愛国の道であると信じることを、田畑茂二郎の「国際法」や横田喜三郎の「戦争犯罪論」などを援用しつつ指摘した。

この結果、教科書調査官は、第二次内閲調整以降改善意見の蒸し返しを断念するに至り、原稿本の記述は、そのままの形で教科書となった。

④ 変更後の記述

日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシテイー)とよばれる。

⑤ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第四 「侵略」の記述への昭和五五年度検定、同節第五「南京大虐殺」の記述への昭和五五年度検定)記載のとおりである。

6  昭和五七年における正誤訂正申請不受理の措置

(一) 正誤訂正申請までの経緯

(1) 昭和五五年及び昭和五六年における申請に係る歴史教科書の記述中の日本の対外侵略等にかかわる部分についての検定に対し、関係諸外国からの厳しい批判が相次ぎ、内閣官房長官は、昭和五七年八月二六日、談話を発表して「わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」旨を約束し、これを受けて文部省は、同年一〇月二五日、教科用図書検定調査審議会第二部会歴史小委員会において、今後の検定方針の変更を明らかにした。

右方針変更の内容には、「南京事件については、原則として同事件が混乱の中で発生した旨の記述を求める検定意見を付さない」こと及び「主として満州事変以降における日中関係の記述については、特に不適切な場合を除き、『侵略』、『侵攻』、『侵入』、『進出』、『進攻』等の表現について検定意見を付さない」ことが含まれている。

また、これに引き続き、同年一一月二四日付で教科用図書検定基準が一部変更され、社会科の必要条件〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の項目に「(15)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」の規定が追加された。

(2) このように検定方針が変更されたことに伴い、原告は、昭和五五年度検定において前記5(二)(3)のとおり修正意見によって変更を余儀なくされた南京大虐殺に関する脚注の記述の中から、「激昂裏に」の一語を削除した教科書を発行したいと考え、右記述を、「中国軍の激しい抵抗にもかかわらず、ついに南京を占領した日本軍は、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる。」と訂正することの承認を求める旨の申請を、昭和五七年一二月二日、三省堂を通じて行った。

(3) 右申請は、検定規則一六条に則したもので、「正誤訂正」の申請といわれるものであり、これは、単なる誤記、誤植、訂正の域を越えて、教育的配慮から教科書内容の速やかな適正化を図るための手段としても用いられているのである。

昭和五二年の検定規則の改正により、各年度において検定申請を行うことができる種目及び期間を文部大臣が指定し得ることとされ(同規則六条四項)、昭和五七年度に関しては、高等学校日本史の教科書は新規検定に限り、かつ、同年五月三一日から六月三日まで及び八月三日から九月二日までの間に限って申請を受理する旨の制限が加えられていた(昭和五六年九月二八日文部省告示第一五一号)。原告が右申請を行ったものは、右のように教科書に改訂を加える本来的機会が厳重に制限されているために、原告としては所期の改訂を直ちに施すためには、「正誤訂正」の申請によるしか方法がなかったからである。

(二) 正誤訂正申請の不受理

ところが、文部省は、右正誤訂正申請を受理することを拒否し、これを文字どおり門前払いにした。申請の受理を拒否することは、とりもなおさず全面的な不承認処分と同視すべきものである。

原告は、この正誤訂正申請不受理により、自己の学問研究の結果及び教育的配慮に基づく教科書記述の実現を妨げられ、多大な精神的苦痛を被った。

(三) 右(一)(二)に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第一節二3 昭和五七年における正誤申請不受理の措置、同章第四節第六 正誤訂正不受理の違憲違法性)記載のとおりである。

7  昭和五八年の申請に係る検定(以下「昭和五八年度検定」という。)処分の経過と内容

(一) 検定処分に至る経緯

(1) 昭和五五年度及び昭和五六年度に新規検定を受けて発行された教科書に対する改訂を施そうとする者に対する改訂検定の申請受理の機会は、文部省の当初の方針では、昭和五九年度とされていたが、前記6(一)(1)において述べた外国からの批判を契機として、文部省は、右改訂検定申請の受理年度を一年繰り上げ、昭和五八年度においてこれを受理することとした(昭和五七年一二月一六日文部省告示第一五八号)。

(2) 原告は、その執筆にかかる高等学校用日本史教科書「新日本史」の原稿について、昭和五五年以降の研究成果をもとに、教育現場からの要望を踏まえ、また、さきに6(一)(1)において述べたとおり検定基準が変更されたことをも考慮して、昭和五五年度検定合格本の記述中、八四箇所について改訂を加え、昭和五八年九月八日、発行者たる三省堂を通じて、文部大臣に対し改訂検定申請を行った。

右原稿に対する原稿本審査での処分は、昭和五八年一二月二一日付でなされたが、その内容は八四箇所中六〇箇所については合格とし、他の二四箇所については約七〇項目にわたる修正意見又は改善意見を付した上で合格とする条件付合格処分であった。右修正意見及び改善意見の伝達は、教科書調査官から口頭で同年一二月二七日に合計約三時間をかけて行われた。

(3) 原告は、三省堂を通じ、昭和五九年一月一七日付で文部省に対し、修正意見を付された箇所のうち、本件提訴にかかる記述箇所(沖縄戦を除く)四箇所を含む八箇所について検定規則一〇条所定の「意見申立書」を文部大臣に提出した。同年二月一日、右意見申立てに対する文部大臣の決定がなされたが、右決定では八箇所のうち二箇所(シンガポールでの非戦闘員の処刑、フィリピンでの住民虐殺の各記述箇所)は意見申立てが容れられたものの、本件提訴にかかる四箇所を含む六箇所はいずれも意見申立てが容れられなかった。

原告は、三省堂を通じ、同年一月二四日に内閲本を文部大臣に提出し、第一次(同年二月一〇日)、第二次(同月一七日)、第三次(同月二九日)、第四次(同年三月五日)、第五次(同月九日)の「内閲調整」を経て、同年四月一三日にようやく内閲本審査が終了し、同年五月二四日に見本本審査合格となった。

(4) 右(1)ないし(3)に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第一節二4昭和五八年度検定)記載のとおりである。

(二) 検定処分の内容

被告は、以下のとおり、原告の原稿本の記述に対し、修正意見を付し、これを合格の条件とすることによって原告の意思に反する記述の変更を強制し、もって原告に著しい精神的苦痛を被らせた。

(1) 日清戦争中の朝鮮人民の反日抵抗(原稿本二三〇頁本文)

① 原稿本の記述

一八九四(明治二七)年、ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいたが、戦場となった朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている。

(従前の記述では、開戦のきっかけになった「東学党の乱」の名称を挙げておいたが、開戦後の朝鮮人民の反日抵抗の存在については全く言及がなかった。原告は、最近の研究成果を踏まえ、「戦場となった朝鮮では……」以下の一句を補充しようとしたものである。)

② 被告の修正意見

原告の右記述に対し、右の補充しようとした一句を削除せよという趣旨の修正意見が付された。

右修正意見の理由は、「朝鮮人民の反日抵抗とは何を指すのかわからない。たとえ特殊な研究に発表されていても、啓蒙書によって十分に普及されている事例以外は取り上げるべきではない。」というのである。

③ 原告の対応

原告は、修正意見に対し、昭和五九年一月一七日付で意見申立書を提出し、その中で、現在日清戦争についての研究の最高水準を示すものとしてあげられる中塚明の「日清戦争の研究」、朴宗根の「日清戦争と朝鮮」の中で朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている事実が根本史料に基づき詳細に立証されていることを指摘したが、右申立ては認められなかった。意見申立てに対する文部大臣の決定には、「申立人の列挙している文献は、『人民の反日抵抗』を例えば『甲午農民戦争の再蜂起』(中塚)、『農民戦争の再発』(藤村道生)、『第二次農民戦争の展開』(朴)などと呼んでおり、いずれもいわゆる東学の再挙を指していることは明らかであるから、この原稿のような改訂は東学の乱の発生を削除して再挙のみを記述する結果となるので、改善されたとはいえない。」旨の理由が付されている。そのため、原告はやむをえず「人民の反日抵抗」との記述を維持することは断念し、後記④のとおり記述を変更した。

④ 変更後の記述

一八九四(明治二七)年、ついに日清戦争となり、その翌年にわたる戦いで日本軍は勝利を重ねたが、戦場となった朝鮮では労力・物資の調達などで人民の協力を得られないことがたびたびあった。

⑤ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第七 「朝鮮人民の反日抵抗」の記述への昭和五八年度検定)記載のとおりである。

(2) 日本軍の婦女暴行(原稿本二七六頁脚注)

① 原稿本の記述

日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を虐殺し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。南京大虐殺とよばれる。

② 被告の修正意見

原告の右記述に対し、「日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。」の部分を削除せよ、との修正意見が付された。右修正意見の理由の要旨は、「軍隊において士卒が婦女を暴行する現象が生ずるのは世界共通のことであるから、日本軍についてのみそのことに言及するのは、選択・配列上不適切であり、また特定の事項を強調しすぎる。」というのである。

③ 原告の対応

原告は、右修正意見に対し、昭和五九年一月一七日付で意見申立書を提出し、その中で、植村正久が明治二九年六月二六日の「福音新報」に書いた「よく自国の罪過を感覚し、その逃避せる責任を記憶し、その蹂躙せし人道を反省せるは愛国心の至れるものにあらずや。(中略)良心を痴鈍ならしむるの愛国心は亡国の心なり。これがために国を誤りしもの、古今その例少なからず。」の一文を引用し、恥ずべき過去を隠蔽することは恥ずべき過去をもつことによりさらに恥ずべきことであることを指摘したが、右申立ては容れられなかった。文部大臣の決定には、「申立人の主張するように他国の例を援引したのではなく、実例を捨象した認識を示したものであり、また最も重大な殺害行為について削除を求めたものでもなく、事実の選択と扱いについて個性記述的であることを本質とする立場(ヴィンデルバント『歴史と自然科学』)からみて、この場合にのみ、『古代以来の世界的共通慣行例』(家永三郎著『太平洋戦争』二一五ページ)を記すことは、適切でないと判断したものである。」旨の理由が付されている。そこで、原告はやむをえず後記④のとおり原稿本の記述を変更した。

④ 変更後の記述

日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには暴行や略奪などをおこなうものが少なくなかった。南京大虐殺とよばれる。

⑤ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第八 「日本軍の残虐行為」の記述への昭和五八年度検定)記載のとおりである。

(3) 七三一部隊等(原稿本二七七頁脚注)

① 原稿本の記述

とくに第八路軍は華北などに広大な解放地区をつくりだし、住民の支持をえて、点と線をたもっているにひとしい日本軍にくりかえし攻撃を加え、ゲリラ戦の経験のない日本軍をなやませた。このために、日本軍はいたるところで住民を殺害したり、村落を焼きはらったり、婦人をはずかしめるものなど、中国人の生命・貞操・財産などにはかりしれないほど多大の損害をあたえた。またハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。

② 被告の修正意見

原告の右記述に対し、「婦人をはずかしめるものなど」の一句及び「貞操」の語並びに「またハルビン郊外に……」以下いわゆる七三一部隊に関する記述の全部を削除せよという趣旨の修正意見が付された。

右修正意見の理由の要旨は、右「婦人をはずかしめるものなど」の一句及び「貞操」の語については、前記(2)②と同一の理由によるものであり、また、いわゆる七三一部隊に関する記述については、「七三一部隊のことは現時点ではまだ信用にたえうる学問的研究、論文ないし著書などが発表されていないので、これを教科書に取り上げることは時機尚早である。事実関係が必ずしも確立していないので、もう少し固まったものが出るまで待つべきだ。」というのである。

③ 原告の対応

原告は、右修正意見に対し、昭和五九年一月一七日付で意見申立書を提出し、その中で、「婦人をはずかしめるものなど」の一句及び「貞操」の語についてはさきに(2)③において述べたものと同趣旨のことを指摘し、七三一部隊のことは学術書である家永三郎著「太平洋戦争」の中で記述され、同書は英訳、スペイン訳にもなって世界各国で広く読まれていること、当時の軍幹部、軍医、同部隊員らの証言としての性格を持つ雑誌論文等の文献やテレビドキュメント等に照らし明らかな客観的事実であること、七三一部隊の行為に関する記述を真理教育の場において用いられる教科書から排除すべきでないことを指摘したが、右申立ては認められなかった。

「婦人をはずかしめるものなど」の記述部分についての決定に付されている理由はさきに(2)③において述べたと同様である。七三一部隊の記述部分についての決定には、「申立人の列挙している関係文献を精査したけれども、学界の状況は史料収集の段階であって、専門的学術研究が発表されるまでに至っていないと判断されるし、申立人もまた『学術書に記載されていない』状況を明確に認めているのであるから、教科書に取り上げることは時機尚早である。なお、申立人の著作物における関係記述はB六判二ページ足らずであるし、事実認定の手続きに全く触れていない。」旨の理由が付されている。

そこで、原告は、やむをえず、「婦人をはずかしめるものなど」及び「貞操」の記述部分を削除するとともに、七三一部隊に関する記述部分を全文削除して、原稿本の記述のうち、「このために、」以下の記述を後記④のとおり変更した。

④ 変更後の記述

このために、日本軍はいたるところで住民を殺害したり、村落を焼きはらったりして、中国人の生命・財産などにはかりしれないほど多大の損害をあたえた。

⑤ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第八 「日本軍の残虐行為」の記述への昭和五八年度検定、同節第九 「七三一部隊」の記述への昭和五八年度検定)記載のとおりである。

(4) 沖縄戦(原稿本二八五頁脚注)

① 原稿本の記述

沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死をとげたが、そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなかった。

② 被告の修正意見

原告の右記述に対し、「沖縄県民の犠牲のなかには、日本軍のために殺された人も少なくなかったことは事実であるが、集団自決が一番数が多い」ことを理由に沖縄戦の全貌を明確にするため、「集団自決の記述を加えなければならない」旨の修正意見が付された。

③ 原告の対応

原告は、右修正意見に対し、「内閲調整」の過程で、集団自決は「非業の死」の記述に念まれており、日本軍のために殺された事実は自国軍隊にあるまじき行為として特別に記述したものである旨反論するとともに、原稿本の記述を「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が、アメリカ軍の攻撃や、集団自決や、あるいは日本軍によって壕から弾丸が飛びかう地上に追い出されたり、壕内で泣き声を立てる幼児やスパイと目された人たちが殺害されたりするなど、戦火のなかで非業の死をとげた。」と修正した。

しかし、右記述に対しても、「他を削ってまで新しいことを入れるのは修正意見に基づく修正の範囲を超えているので認められないし、『……や……や……たり……たりするなど』では文章として続かない。」旨の意見が付され、教科書調査官の容れるところとならなかった。そこで、原告はやむをえず、後記④のとおり原稿本の記述を変更した。

④ 変更後の記述

沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が砲爆撃にたおれたり、集団自決に追いやられたりするなど、非業の死をとげたが、なかには日本軍に殺された人びとも少なくなかった。

⑤ 右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第四節第一〇 「沖縄戦」の記述への昭和五八年度検定)記載のとおりである。

8  本件検定処分等の違憲・違法性

(一) 教科書検定制度の違憲・違法性

学校教育法(昭和二二年法律第二六号)二一条一項(四〇条・五一条・七六条が二一条を準用する部分を含む)、教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令三二号)、高等学校教科用図書検定基準(昭和五四年文部省告示第一三四号)等からなる現行の教科書検定制度は、憲法・教育基本法に違反するものであり、したがって、そのような制度に基づき行われた本件検定処分等も憲法・教育基本法に違反する。

(1) 表現の自由の侵害(憲法二一条違反)

現行の教科書検定制度は、教科書という出版物の発行の自由を制限するものであるから、憲法二一条一項が保障する表現の自由を侵害するものであるとともに、教科書という出版物の発行に先立ち公権力がその内容を審査し不適当と判断した記述の発表を禁止するものであるから、憲法二一条二項が禁止する検閲に該当するものである。

(2) 学問の自由の侵害(憲法二三条違反)

現行の教科書検定制度は、著作者の学問的研究の成果に基づく教科書の記述に対して、その内容を審査し不適当と判断した記述の発表を禁止するものであるから、憲法二三条が保障する学問の自由を侵害するものである。

(3) 教育の自由の侵害(憲法二六条等違反)及び不当な支配(教育基本法一〇条一項違反)

国民が教科書を執筆し又は発行する自由は、教育の自由の一環として、憲法二六条若しくは二一条に基づき、保障されているところ、現行の教科書検定制度は、国民の右自由を制限するものであるから、憲法二六条ないし二一条に違反するものである。教育基本法一〇条一項は、憲法が教育の自由を保障したことに基づき、教育行政が教育の自主性を損なうことを禁じたものであるが、現行の教科書検定制度は、教科書の記述に対して詳細かつ大幅な介入をして教育の自由、自主性を損なうものであるから、教育基本法一〇条一項に違反するものである。

(4) 適正手続違反(憲法三一条違反)

現行の教科書検定制度は、検定審査に極めて重要な関与をしている教科用図書検定調査審議会委員、教科書調査官などの選任について、その中立公正を保障する仕組がなく、また、処分理由の告知・聴聞手続が極めて不十分にしか行われていないなど、国民の重大な権利・利益を制限する手続としては適正を欠くものであり、憲法三一条に違反するものである。

以上のほか、教科書検定制度が違憲、違法であることについての原告の主張の詳細は、別添(一)(第一章第二節 教科書検定制度の違憲違法性)記載のとおりである。

(二) 本件検定処分等の違憲・違法性

(1) 現行の教科書検定制度が直ちに憲法・教育基本法に違反しないとしても、その解釈適用を誤ってされた本件検定処分ないし検定意見は、憲法・教育基本法に違反する。

右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第三節第一 適用違憲の主張とその内容、同章第四節 本件検定処分の違憲違法性)記載のとおりである。

(2) 本件検定処分等が憲法・教育基本法の解釈適用を誤ってされたものでないとしても、本件検定処分ないし検定意見は、法により検定権者に付与された裁量の限界を逸脱し、検定権限を濫用したもので違法である。

右に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第二章第三節第二 裁量権濫用の主張とその内容、同章第四節 本件検定処分の違憲違法性)記載のとおりである。

9  公務員の故意又は過失

本件検定処分ないし検定意見は、当時の文部大臣及びその補助者であった事務次官、初等中等教育局長、同局教科書検定課長、同課教科書調査官らがその検定権限を行使するに当たり、右各検定処分及びその根拠法条である学校教育法二一条及びその下位法令が違憲違法であることを認識し、又は認識すべきであったにもかかわらず、これを怠った故意又は過失により、違憲・違法な本件検定処分ないし検定意見をなしたものである。

右の点に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第三章第一 本件損害賠償の意味、同章第二 本件不法行為における文部大臣らの故意または過失)記載のとおりである。

10  損害

前記8のとおり、原告は、文部大臣の違憲・違法な本件各条件指示及びそれに基づく修正等の要求により、自己の学問研究の結果及び教育的配慮に基づく教科書記述を禁止され、執拗にその修正等を迫られるなどして、多大の精神的苦痛を被った。

また、前記のとおり違憲・違法な正誤訂正申請不受理により、原告は、自己の学問研究の結果及び教育的配慮に基づく教科書記述の実現を妨げられ、多大の精神的苦痛を被った。

右各精神的苦痛は、合計金二〇〇万円を下らない額をもって慰藉するのが相当である。

右の点に関する原告の主張の詳細は、別添(二)(第三章第三 本件不法行為における原告の損害)記載のとおりである。

11  結論

よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条に基づき、文部大臣の違法な検定権限の行使による損害賠償金二〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和五九年二月一一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  当事者について

前記一1の事実のうち、

(一) 「原告は、」から「歴史学者である。」までの事実は認める。

(二) 「その間」から「尽力してきたものである。」までの事実のうち、原告が、昭和二三年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞し、昭和二五年に論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、原告に列記されたような著述があること、原告が、戦後文部省の編纂委員に任命され「くにのあゆみ」の編纂に従事し、昭和二七年以降は、三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」の執筆・改訂を行ったことは認め、その余は不知。

(三) 「被告は、」以下は認める。

2  教科書検定制度の変遷について

(一) 前記一2(一)の事実のうち、教科書検定制度が原告主張の国定制ないし自由発行制と異なるものであることは認めるが、その余は争う。

「教科書検定」は、民間で著作・編集された図書について、文部大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認めることをいい、その法的性質は、申請図書に対し一般の図書が本来は有しない教科書としての資格を付与する講学上の「特許行為」である。また、「教科書」とは、小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であって、文部大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有するものをいう(教科書の発行に関する臨時措置法二条一項)。

(二) 同(二)の事実のうち、わが国において、明治五年に「学制」が発布されたこと、明治一四年以降小学校の教科書について届出制が導入されたこと、明治一六年以降小学校、中学校、師範学校の教科書について文部省による認可制が導入されたこと、明治一九年以降小学校、中学校、師範学校の教科書について文部大臣による検定制が導入されたこと、明治三六年以降小学校教科書が国定制(一部の教科については例外的に検定制を併用)になったこと、昭和一八年以降中等学校、師範学校の教科書についても国定制に移行したことは認める。また、実業学校の教科書、盲学校・聾唖学校の教科書については、戦前の一時期に地方長官による認可制が採られたこともあったことは認め、その余は争う。

(三) 同(三)の事実のうち、戦後、わが国の教育制度はその理念、制度において根本的な改革が行われたこと、憲法が教育を受ける権利を保障している(憲法二六条)こと、教育基本法(昭和二二年法律第二五号)を初めとする教育関係法が制定されたことは認め、その余は争う。

(四) 同(四)の事実のうち、昭和二二年に制定された学校教育法(昭和二二年法律第二六号)において、「小学校においては、監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」(同法二一条一項)とされ、中学校についてはこの規定が準用され(同法四〇条)、「高等学校に関する教科用図書、……その他必要な事項は、監督庁が、これを定める。」(同法四九条)とされ、同法一〇六条本文において、「……第二一条第一項、……第四九条……の監督庁……は、当分の間、これを文部大臣とする。」とされたこと、同年に制定された学校教育法施行規則(昭和二二年文部省令第一一号)において、「高等学校の教科用図書は、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものを使用しなければならない。」(同規則五八条一項)とされたこと、翌二三年に制定された教育委員会法(昭和二三年法律第一七〇号)において、都道府県教育委員会の事務として「文部大臣の定める基準に従い、都道府県内のすべての学校の教科用図書の検定を行うこと」(同法五〇条二号)及び「教科用図書は、……第五〇条第二号の規定にかかわらず、用紙割当制が廃止されるまで、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書のうちから、都道府県委員会が、これを採択する。」(同法八六条)とされたこと、昭和二八年に制定された学校教育法等の一部を改正する法律(昭和二八年法律第一六七号)により、従前の学校教育法二一条一項の「監督庁の検定若しくは認可」が「文部大臣の検定」に、「監督庁において」が「文部大臣において」に改められ、同法五一条の「第二八条第三項」が「第二一条、第二八条第三項」に改められるとともに、教育委員会法五〇条二号及び八六条の各規定がいずれも「削除」されたことは認め、その余は争う。

(五) 同(五)の冒頭の事実(「学校教育法の下での検定制度」から「行われた。」まで)は争う。但し、昭和三一年に教科書検定制度の一部に変更が加えられたことはある。

同(五)(1)の事実のうち、昭和三〇年八月、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」と題するパンフレットを公刊したことは認め、その余は争う。

同(五)(2)の事実のうち、昭和三一年三月、教科書法案が国会に提出されたが、参議院において廃案となったこと、同法案に検定の拒否(七条)、登録の拒否(三二条)、報告及び立入検査(三六条)の規定があったこと、同年一〇月、文部省設置法施行規則の一部改正省令によって、従来から教科用図書検定調査審議会に置かれていた調査員(非常勤)とは別途に、常勤の文部省職員である教科書調査官が設置されたことは認め、その余は争う。

同(五)(3)の事実のうち、昭和三三年文部省告示第八六号によって教科用図書検定基準が全面改正されたこと、高等学校学習指導要領が昭和三五年一〇月全面改正されたことは認め、その余は争う。

(六) 同(六)の事実のうち、昭和五二年、検定規則が全面改正されたこと、これが全面改正として戦後初めてのものであったことは認め、その余は争う。

(七) 同(七)の事実のうち、昭和五四年一〇月、「じゅん刊・世界と日本」に「新・憂うべき教科書の問題」が掲載され、昭和五五年一月から「自由新報」が「いま教科書は―教育正常化への提言」を連載したことは認め、その余は争う。

(八) 以上に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第一部第一章 戦後教育の発展)記載のとおりである。

3  現行教科書制度の概要

(一) 法律上の根拠

前記一3(一)のうち、「昭和二八年」から「準用されている。)。」までは認め、その余は争う。

(二) 検定規則の内容

同(二)のうち

(1) 「教科書検定制度」から「掲げている。」までは認める。

(2) 「そして、右基本条件の」から「構成しているといえる。」までのうち、学習指導要領との関連付けを強調していることは争い、その余は認める。

(3) 「検定には」から「制限している。」までのうち、教科用図書検定規則三条、四条及び六条一項において原告主張の内容の定めがされていること、文部大臣が同規則六条四項の規定に従って各教科科目毎の検定受理機会を告示を発することにより定めていることは認め、その余は争う。

(4) 「そして、『新規検定』、」から「これに当たる。)。」までは、認める。但し、条件付合格処分が圧倒的に多いのは、新規検定であり、また、検定審議会の設置の根拠は文部省設置法(昭和二四年法律第一四六号)である。

(5) 「次の『内閲本審査』は、」から「呼ばれている。」までのうち、内閲本審査は修正意見に従った修正が行われているか否かを審査、認定する手続であること、修正意見それ自体に対し検定申請者から意見の申立てがあれば、文部大臣は、検定審議会の議を経て当該修正意見を取り消すか否かを決するものとされていることは認め、その余は争う。

(6) 「最後の『見本本審査』は、」から「関与しない。」までのうち、見本本審査は図書として必要な要件を備え完成されたと認められるかどうかについて審査するものであること、その際に図書の装丁・印刷等の外観についても審査をすることは認め、その余は争う。

(7) 「なお、」から「解釈運用されている。」までのうち、検定規則において、検定を経た図書について誤った事実の記載があることを発見したときなど一定の場合に、発行者に対し文部大臣の承認を受けて「正誤訂正」をすることを義務付けていることは認め、その余は争う。

(三) 検定手続の問題点

同(三)のうち、

(1) 検定権者に対する制約の欠如

検定規則において、申請を行うことができる図書の種目並びに各年度において申請を行うことができる図書の種目及び期間は文部大臣が定める(同規則六条四項)、原稿本審査合格の通知を受けた者は、文部大臣が定める期間内に内閲本を作成し提出する(同規則一三条一項)、内閲本審査終了後に文部大臣が定める期間内に見本本を作成し提出する(同規則一四条一項)、原稿本審査終了後一五日以内に修正意見に対する意見申立書を提出し得る(同規則一〇条一項)こととされていること、原稿本審査、内閲本審査及び見本本審査の各期間については定めがないこと、教科書の採択・発行に関する法律として、教科書の発行に関する臨時措置法(昭和二三年法律第一三二号)及び義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(昭和三八年法律第一八二号)が制定されており、右臨時措置法において、発行しようとする教科書書目の届出及び教科書展示会の時期は文部大臣が指示する旨定められている(同法四、五条)こと、同法施行規則(昭和二三年文部省令第一五号)において、教科書展示会への見本本出品のための都道府県の教育委員会への届出につき定められている(同規則八条)ことは認め、その余は争う。

(2) 改善意見の実質

検定規則において、文部大臣は原稿本審査合格の条件として修正意見を付することができる旨定められている(同規則九条二項)こと、「教科用図書検定規則の実施の細目の全部の改正について」(昭和五四年一〇月一七日付け文初検第二九八号、各教科書発行者あて文部省初等中等教育局長通知)の別添「教科用図書検定規則の実施の細目」において、改善意見は改善を加えることが適当と判断される箇所について付するものである旨定められていることは認め、その余は争う。

(3) 検定基準の包括性

争う。

(4) 教科書調査官の実権

文部大臣が検定権限を行使するに際し、原稿本審査の段階では検定審議会の議を経ることが検定規則上要請されていること、教科書調査官及び教科用図書検定調査審議会に置かれる調査員(一点の教科書につき概ね、大学の教員一名と現場教師二名の調査員がその都度委嘱される。)がそれぞれ調査意見書及び評定書を作成し、これが教科用図書検定調査審議会に提出されて同審議会における審議の参考資料にされること、教科用図書検定審査内規(昭和五三年六月一五日審議会決定)及び同実施細目(同)が存在し、原稿本審査における合否の分かれ目が一〇〇〇点満点中八〇〇点を取るかどうかにかかることは認め、その余は争う。

(四) 右(一)ないし(三)に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第一部第二章教科書検定制度の概要、同部第三章 教科書検定の手続)記載のとおりである。

4  「新日本史」に対する従前の検定の実態

前記一4のうち、

(一) 原告の教科書執筆の動機と執筆に当たっての配慮

原告が昭和二二年に「新日本史」を一般用図書として公刊したことは認め、その余は不知。

(二) 「新日本史」に対する検定の経緯

同(二)(1)の事実は、認める。但し、いずれの年度においても検定申請者は原告ではなく、三省堂である。

同(2)は、不知。

同(3)のうち、原告がその主張のとおり訴訟を提起したこと、右訴訟の経過が原告主張のとおりであることは認め、その余は争う。

5  昭和五五年度検定処分の経過と内容

前記一5のうち、

(一) 検定処分に至る経過

(1) 「新日本史」原稿について昭和五五年九月五日付けで文部大臣に対する検定申請が行われたこと(検定申請者は三省堂であり原告ではない。)、原稿の内容は従前の教科書の全面改訂であったため、検定の種類は新規検定であること、右原稿に対する原稿本審査での処分が昭和五六年一月二六日付けでなされ、条件付合格処分であったこと、修正意見及び改善意見の伝達が教科書調査官から口頭で同年二月三日に行われ、意見の項目数、意見の伝達に要した時間が原告主張のとおりであることは認める。なお、伝達が行われた日は、同年二月三日及び同月四日であった。

(2) 昭和五六年三月九日付けで内閲本が文部大臣に提出され、その際一部の改善意見に基づく記述の改善を図るための修正を行わない理由を記載した一覧表が提出されたこと、修正意見について二項目に関し検定規則一〇条一項所定の意見の申立てがなされ、文部大臣はそのうちの一項目について意見の申立てを認めたが、残りの一項目についてはこれを認めなかったこと、内閲本提出後内閲本審査が行われ、この間数次にわたって教科書調査官と三省堂編集者(一部は原告も出席)との間で、内閲本の記述が修正意見に従って適切に修正されたものとなっているかどうかなどについて意見の伝達・聴取が行われたこと、同年五月一六日、内閲本審査合格となったこと、同年四月二〇日、修正を行わない理由を記載した一覧表が再度提出されたことは認め、その余は争う。内閲本、改善意見に対する修正を行わない理由を記載した一覧表及び修正意見に対する意見申立書を提出したのは三省堂であり原告ではない。

(3) 見本本審査合格となった日が昭和五六年七月八日であることは認め、その余は争う。但し、見本本が文部大臣に提出されたのは同月三日である。

(4) 右(1)ないし(3)に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第二部第一章第一昭和五五年度申請に係る検定について)記載のとおりである。

(二) 検定処分の内容

「被告は、」から「被らせた。」までは争う。

(1) 原稿本に①主張の記述があったこと、右記述に対し②主張のような改善意見及びその理由が付されたこと、右改善意見に対し、③主張のような趣旨の修正しない理由が二度にわたって一覧表により提出されたこと、原稿本の記述がそのままの形で教科書記述となったことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第一章第一節 親鸞に関する記述について)記載のとおりである。

(2) 原稿本に①主張の記述があったこと、「新日本史」昭和四七年度新規検定本にも同様の記述があったが、これに対しては検定意見が付されなかったこと、昭和五五年度新規検定に当たり②主張のような修正意見及びその理由が付されたこと、右意見に対し③主張のような原告の意見が内閲本審査段階で教科書調査官に述べられたこと、原稿本の記述が④主張のように変更され教科書記述となったことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第一章第二節 戊辰戦争に関する記述について)記載のとおりである。

(3) 原稿本に①主張の記述があったこと、原稿本の〔脚注〕4に対し、修正意見が付されたこと、右修正意見の趣旨が概ね「このままでは、占領直後に、軍が組織的に虐殺をしたというように読みとれるので、このように解釈されぬように表現を改めよ」というものであったこと、原稿本の〔本文〕の中の「侵略」という用語に対し改善意見が付されたこと、右改善意見の趣旨は概ね原告主張のような趣旨及び表記・表現の統一が望ましいというものであったこと、右〔脚注〕4の部分が④主張のように変更され教科書記述となったこと、「侵略」についての改善意見に対し③主張のような趣旨の修正を行わない理由が二度にわたって一覧表により提出されたこと、右〔本文〕の記述がそのままの形で教科書記述となったことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第一章第三節 「日本の侵略」という記述について、同章第四節 南京事件に関する記述について)記載のとおりである。

6  昭和五七年における正誤訂正申請不受理の措置

前記一6のうち、

(一) 正誤訂正申請までの経緯

(1) 昭和五七年八月二六日、「歴史教科書」についての官房長官談話が発表されたこと、同年一一月二四日付けで教科用図書検定基準が一部改正され、原告主張の規定が追加されたことは認め、その余は争う。

(2) 同年一二月二日に三省堂従業員が原告主張のような正誤訂正の申請書を持参したことは認め、その余は争う。

なお、正誤訂正の申請をなし得るのは、検定規則上発行者とされている。

(3) 検定規則一六条に「正誤訂正」についての定めがあること、昭和五二年の検定規則の改正により、各年度において検定申請を行うことができる種目及び期間を文部大臣が定める旨の規定(同規則六条四項)が設けられ、昭和五七年度に関しては、高等学校日本史の教科書は新規検定に限り、それぞれ同年五月三一日から六月三日まで及び八月三〇日から九月二日までの間に申請を受理する旨定められた(昭和五六年文部省告示第一五一号)ことは認め、その余は争う。

(二) 正誤訂正申請の不受理

昭和五七年一二月二日、三省堂従業員が正誤訂正の申請書を持参したものの、文部大臣がこれを受理するに至らなかったことは認め、その余は争う。

文部大臣が三省堂従業員の持参した正誤訂正の申請書を受理するに至らなかったのは、文部省側が同従業員に対し、正誤訂正の要件に該当しない申請は適切でないので検討されたい旨を話したところ、同従業員がこれを了承して右申請を自ら持ち帰ったためである。

(三) 右(一)(二)に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第二章 昭和五七年度・正誤訂正申請について)記載のとおりである。

7  昭和五八年度検定処分の経過と内容

前記一7のうち、

(一) 検定処分に至る経緯

(1) 文部大臣が昭和五五年度及び昭和五六年度に新規検定を受けて発行された教科書についての改訂検定の申請を昭和五八年度において受理したことは認め、その余は争う。

(2) 昭和五五年度検定合格本「新日本史」の記述中八四箇所について改訂を加えたものについて、昭和五八年九月八日に三省堂から文部大臣に対し検定規則四条に基づく改訂検定申請がなされたこと、文部大臣は右申請について原稿本審査を行い昭和五八年一二月二一日付けで処分をしたこと、右処分の内容は、右八四箇所中六〇箇所について条件を付さずに合格とし、他の二四箇所については約七〇項目にわたる修正意見及び改善意見を付した上で条件付合格とするものであったこと、右修正意見及び改善意見が同年一二月二七日に教科書調査官から合計約三時間をかけて伝達されたことは認め、その余は争う。

(3) 原告が修正意見を付された箇所のうち本件提訴にかかる記述箇所(沖縄戦を除く)四箇所を含む八箇所について昭和五九年一月一七日に意見申立てをなしたこと、同年二月一日、右意見申立てに対し文部大臣は八箇所のうち二箇所は意見申立てを認めたが、本件提訴にかかる四箇所を含む六箇所はいずれもこれを認めなかったこと、本件改訂検定の日程等が原告主張のとおりであったこと、原告が本件箇所の記述に対し修正をなし、昭和五九年四月一三日内閲本が合格となったことは認める。

なお、文部大臣が教科用図書検定調査審議会の議を経て意見申立てを認めて修正意見を取り消す場合には、従来からその理由を示していない。

(4) 右(1)ないし(3)に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第二部第一章第二昭和五八年度申請に係る検定について)記載のとおりである。

(二) 検定処分の内容

「被告は、」から「被らせた。」までは争う。

(1) 昭和五五年度検定合格本二三〇頁にある「日清戦争」の項の本文の記述の一部について①主張のとおりの改訂の申請があったこと、従前の記述では、開戦の重要な契機となった「東学党の乱」の記述があったが、開戦後の朝鮮における反日抵抗に関する言及は全くなかったこと、右改訂の申請に対して概ね②主張のような修正意見及びその理由が付されたこと、右修正意見に対し検定規則一〇条所定の意見申立書が昭和五九年一月一七日付けで提出され、その内容が③主張のようなものであったこと(但し、右意見申立書を提出したのは三省堂であり原告ではない。)、右意見申立てが認められなかったこと、文部大臣が意見申立てを認めなかった理由が③主張のとおりであること、原稿本の記述が④主張のとおり変更され教科書記述となったことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第三章第一節 「朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている」という記述について)記載のとおりである。

(2) 昭和五五年度の検定合格本二七六頁にある南京大虐殺に関する脚注の記述について①主張のとおりの改訂の申請があったこと、これに対して概ね②主張のような修正意見及びその理由が付されたこと、右修正意見に対し③主張のような内容の意見申立書が提出されたこと(但し、右意見申立書を提出したのは三省堂であり原告ではない。)、右意見申立てが認められなかったこと、文部大臣が意見申立てを認めなかった理由が③主張のとおりであること、原稿本の記述が④主張のとおり変更され教科書記述となったことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第三章第二節 南京事件に関する記述について)記載のとおりである。

(3) 昭和五五年度の検定合格本二七七頁にある脚注の記述について①主張のとおりの改訂の申請があったこと、これに対して概ね②主張のような修正意見が付されたこと、右修正意見に対し③主張のような内容の意見申立書が提出されたこと(但し、右意見申立書を提出したのは三省堂であり原告ではない。)、「婦人をはずかしめるものなど」、「貞操」の各記述部分及び七三一部隊についての記述部分についての意見申立てが認められなかったこと、文部大臣が右意見申立てを認めなかった理由が、前者については前記一7(二)(2)③主張のとおりであり、後者については同(3)③主張のとおりであること、原告が前者については内閲本審査において「婦人をはずかしめるものなど」と「貞操」との記述を削除し、後者については七三一部隊の記述を全文削除し、原稿本の記述のうち、「このために」以下の記述を④主張のとおり変更したことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第三章第二節 南京事件に関する記述について、同章第三節 いわゆる七三一部隊に関する記述について)記載のとおりである。

(4) 昭和五五年度の検定合格本の記述中二八四頁にある脚注の記述について①主張のとおりの改訂の申請があったこと、これに対して概ね②主張のような修正意見が付されたこと、条件等告知の際右修正意見に対し③主張のような原告の意見が教科書調査官に述べられたこと、内閲本審査において③主張のとおり原稿が修正され提出されたこと、右記述について内閲本審査において概ね③主張のような内容を原告に伝えたこと、原稿本の記述が④主張のとおり変更され教科書記述となったことは認め、その余は争う。

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第三部第三章第四節 沖縄戦に関する記述について(記載のとおりである。

8  本件検定処分等の違憲・違法性

(一) 教科書検定制度の違憲・違法性

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第一部第四章 教科書検定制度の合憲性、適法性、同部第五章 学習指導要領と教科書検定)記載のとおりである。

(二) 本件検定処分等の違憲・違法性

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第二部第二章 教科書検定における適法性の判断基準、同部第三章 本件各検定処分等の適法性、第三部 本件各検定の適法性)記載のとおりである。

9  公務員の故意又は過失

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第二部第四章 故意・過失の不存在について)記載のとおりである。

10  損害

右に関する被告の反論の詳細は、別添(三)(第二部第五章 損害の発生について)記載のとおりである。

第三  証拠<省略>

理由

第一教科書検定制度と本件各検定処分に至るまでの経緯

一原告の経歴及びその著作

原告が、昭和一二年東京帝国大学文学部国文学科を卒業して以来、日本史の研究に従事し、昭和一六年から新潟高等学校教授を、昭和一九年から東京高等師範学校教授をそれぞれ歴任し、昭和二四年の学制改革に伴い、昭和五二年まで東京教育大学教授として歴史教育に携わり、昭和五三年以来中央大学教授の職にあったこと、その間、原告が、昭和二三年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞し、昭和二五年に論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、原告の著書には、右のほかに日本史及び歴史教育に関するものとして「日本道徳思想史」、「日本近代思想史研究」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「戦争と教育をめぐって」、「歴史と責任」、「太平洋戦争」などがあること、原告が、戦後文部省の日本史教科書の編纂委員に任命され、日本史教科書「くにのあゆみ」の編纂に従事したこと、昭和二七年以降は、三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」の執筆・改訂を行ってきたことは、いずれも当事者間に争いがない。そして、原告本人尋問の結果によれば、原告は昭和五九年三月に中央大学を停年により退職したことが認められる。

二本件各検定処分に至るまでの経緯

<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる(当事者間に争いのない事実を含む。)。

1  原告は、昭和二一年に戦後最初の日本史教科書「くにのあゆみ」の古代の部分を分担起草し、「神代」の物語に代わり客観的史実としての石器時代から始まる日本史を小学校に提供する仕事に従事したが、その後、旧制高等学校教師の経験が活用でき、かつ、学問研究の成果を相当程度に反映させることの可能な高等学校日本史教科書の執筆によって日本国憲法・教育基本法下にふさわしい日本史教育に寄与したいと思うに至り、三省堂から新学制による高等学校用の日本史教科書の執筆依頼を受けて執筆し、三省堂が昭和二七年に同社発行の「新日本史」として高等学校用日本史教科書の検定申請をした。

原告は、戦前の日本史教育が、神話や伝説をあたかも客観的事実の如く教えたことにみられるように非科学的であり、また、政治権力者中心の視野の狭い政治史中心であった点を反省し、右教科書では、まず何よりも客観的事実を歴史教育の中心に置き、日本国憲法及び教育基本法の理念に従うこと、民衆の生活史、文化史を重視し、女性の活動や家族生活にも目を向け、従来ともすればいわゆる暗記物になりがちな網羅主義を避けて、統一的、重点的に歴史の流れを生徒に把握させることなどに特に配慮した。また、従来の歴史教科書は、数人の著者が分担して執筆したものが多かったのに対し、右「新日本史」は、総て原告一人が執筆し、全冊を一貫した統一ある通史としてまとめたことに特色を有した。

ところが、右「新日本史」は、当初検定不合格とされたが、当時の検定制度では再度申請すれば別の調査員らに再評定させることとされていたので、原告が無修正のまま再度検定申請したところ、合格し、昭和二八年度から教科書として発行された。

2  右「新日本史」については、昭和三〇年、三省堂の要請により原告が前記初版本に全面的な添削を加えて、同社において検定申請をしたが、これは条件付合格となり、全部で二一六項目に上る修正意見が付された。この原稿は、原告と文部省との間の再三にわたる折衝を経て最終的には検定に合格し、「新日本史」(改訂版)として昭和三一年度から使用された。

3  昭和三〇年には高等学校社会科の学習指導要領が改訂され、教科書もこれに準拠したものを使用しなくてはならくなったため、三省堂は、原告が新しい学習指導要領に合わせて書き改めた「新日本史」(三訂版)につき昭和三一年一一月二九日付で検定申請したが、昭和三二年四月九日不合格処分の通知を受けた。その不合格理由の中に「過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、学習活動を通じて祖先の努力を認識し、日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史の教育目標から遠ざかっている感が深い。」との部分もあり、原告は、文部省あての抗議書を提出したが容れられず、三省堂において同年五月再申請したが、これも同年八月不合格処分となったため、同年一一月修正の上三たび検定申請をしたところ、右教科書は、昭和三三年三月ようやく合格し、昭和三四年度から三訂版として発行された。

4  その後、数年を経て、原告は、右三訂版に部分的改訂を加え、三省堂において四分の一改訂として検定申請をし、昭和三六年二月、これに合格したので、昭和三七年度から四訂版として発行し、これは昭和三九年度まで使用された。

5  昭和三五年に高等学校学習指導要領が全面的に改訂され、教科書改訂の必要が生じたので、三省堂は、昭和三七年八月一五日付で原告執筆に係る「新日本史」(五訂版)原稿につき検定申請したところ、昭和三八年四月一二日不合格の通知を受けた(以下「昭和三七年度検定」という。)。そこで、同社は、同年九月、若干の修正を加えて再申請したところ、昭和三九年三月に条件付合格となった(以下「昭和三八年度検定」という。)。原告は、右の検定がこれまでの検定体験をはるかにしのぐ強烈な権力的介入であると感じたため、昭和四〇年、右昭和三七年度検定不合格処分及び昭和三八年度検定条件付合格処分の修正指示及び修正意見告知につきその違憲違法を主張し、国に対する損害賠償請求訴訟を提起した(いわゆる「第一次訴訟」)。

6  次いで、原告は、昭和三八年度検定において条件付合格となった「新日本史」に部分的改訂を加え、これに基づき、三省堂から、昭和四一年一一月に四分の一改訂として改訂申請したところ、昭和四二年三月、そのうちの一部は合格処分あるいは条件付合格処分となり、他の一部は不合格処分となった。そこで、原告は、右不合格処分について、検定処分取消訴訟を提起した(いわゆる「第二次訴訟」)。

7  昭和四四年九月、右改訂版につき、原告が部分的改訂を加え、三省堂から四分の一改訂として改訂申請したところ、同年一二月に条件付合格となり、昭和四五年度から発行した。

8  昭和四五年に高等学校学習指導要領が全面的に改訂され、教科書改訂の必要が生じたので、三省堂は、昭和四七年四月に新規検定として検定申請したところ、同年九月に条件付合格となり、昭和四八年度から「三省堂新日本史」として発行した。

9  昭和五一年九月に、三省堂は、右教科書につき、部分的改訂を加え、四分の一改訂として改訂申請したところ、昭和五二年二月に条件付合格となり、昭和五三年度から改訂版として発行し、更に、昭和五四年八月に同じく四分の一改訂として改訂申請したところ、昭和五五年二月に条件付合格となり、昭和五六年度から三訂版として発行した。

三教科書検定制度の沿革

<証拠>を総合すると(以上掲記の各証拠中後記認定に沿わない部分を除く。)、次の事実を認めることができる(当事者間に争いのない事実を含む。)。

1  戦前の制度

明治五年、学制(同年九月五日―太陰暦八月三日―文部省布達第一三号別冊)が発布され、学校を小学、中学、大学の三段階に分け、これをもって我が国の近代化教育が発足したのであるが、明治一二年、学制を廃して教育令(同年太政官布告第四〇号)が公布され、これによって、学校は、小学校、中学校、大学校、師範学校及び専門学校その他の各種学校とされ、特に国民教育の基礎である小学校教育の整備に重点が置かれることとなった。

その間、文部省は、教科書に関し明治五年九月「小学教則」を公布して、各教科別の教授要領を定めるとともに、小学校における教科用図書を例示した。しかし、当時は教育体制が備わっていなかったため、教科書についても特別の制度はなく、欧米の教科書を翻訳したもの、寺子屋時代の往来物、藩校の漢籍などが多く用いられ、また、啓蒙書もよく使用された。その後、文部省や東京師範学校が編集した教科用図書も出版され、右例示図書中に追加されたが、実際にどの図書を教科書に使用するかは、各府県、各学校の自由選択に委ねられていた。

ところが、明治一二年にいわゆる「教学聖旨」(教学大旨)が公にされたのを契機に教科書制度も改変されていった。明治一三年、文部省は、使用中の教科書を取り調べた結果小学校教科書の使用禁止書目を発表した。明治一四年には、小学校の教科書について開申制度(届出制度)が、明治一六年には、小学校、中学校、師範学校の教科書について文部大臣による認可制がそれぞれ導入された。そして、明治一九年には、小学校、中学校及び師範学校の教科書について文部省による検定制が導入された。その後、明治三六年には、教科書疑獄事件を直接の契機として、小学校教科書について国定制(一部の教科については例外的に検定制が併用)が実施されることとなり、昭和一八年には中等学校及び師範学校の教科書についても国定制に移行した。もっとも、実業学校の教科書、盲学校・聾唖学校の教科書については、戦前の一時期に地方長官による認可制が採られたこともあった。

2  戦後の制度

(一) 文部省は、昭和二〇年九月「新日本建設ノ教育方針」を発表したが、そこに示された新教育の方針は、「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシ……」というものであった。他方、連合国軍総司令部は、同年一〇月「日本教育制度ニ対スル管理政策」と題する覚書(指令)を発し、①軍国主義及び極端な国家主義的思想の教育内容からの排除、②議会政治、国際平和、基本的人権思想の教授及び実践の確立、③教育関係者の資格審査などを求め、また、同年一二月には、国家神道、神社神道に対する政府の保護の禁止、神道教義の教育内容からの排除を命ずるとともに、修身、日本歴史及び地理の三科目の授業停止並びに使用中の教科書の回収を指示した。そして、右のうち、地理については昭和二一年六月、日本歴史については同年一〇月、文部省が編集し総司令部の認可を経た教科書のみを使用することを条件として右二教科の授業再開が許可されたが、修身科についてはそれが許可されず、昭和二二年新発足した教科である社会科の中に地理、日本歴史のほかに公民が加えられることとなった。

ところで、戦後の我が国の教育を方向付けたものとして、昭和二一年三月に来日した第一次米国教育使節団の総司令部あて報告書がある。そこでは、日本の過去における教育の問題点が克明に指摘され、これに代わるべき民主的教育の在り方として、個人はその能力と適性に応じた教育の機会均等が与えられなくてはならないこと、また、教育内容、方法及び教科書の画一化を避け、教育における教師の自由と関与をより広く認めるべきこと、中央集権的制度を改め、地方分散的制度を採用すべきこと等が提言されている。

右教育使節団に対して日本の情報を提供し意見を交換するため、我が国の学識経験者による教育家委員会が編成され、同委員会は、右活動にとどまらず、更に教育勅語に代わる教育理念の樹立、教育行政の地方分権化や学制の六・三・三・四制など独自の改革案を提唱したが、その後同年八月、内閣に新しく教育刷新委員会(昭和二四年に教育刷新審議会と改称。)が設置されるに及んで発展的に解散した。

昭和二一年一一月三日に日本国憲法が公布され、翌二二年五月三日から施行された。そして、教育に関する基本的な理念及び諸原則を法律をもって定めようという意向が憲法審議の過程において表明されていたが、更に教育刷新委員会の建議を受けて、同年三月三一日、かかる法律として教育基本法(同年法律第二五号)が公布施行された。同法は、民主的で平和的な人格の完成を教育の目的とし、教育の自主性で尊重することなどを骨子とし、これにより我が国の基本的教育体制が確立された。日本国憲法、教育基本法などの制定に伴い、昭和二三年六月一九日に衆議院は「教育勅語等の排除に関する決議」を、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」をし、政府に対し直ちにこれら詔勅の謄本を回収、排除する措置を講ずるよう要請した。

また、昭和二二年三月三一日、学校教育法(同年法律第二六号)が公布されたが(ただし、施行は同年四月一日)、同法は、小学校及び中学校においては「監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」(同法二一条一項、四〇条)、「高等学校に関する教科用図書……その他必要な事項は、監督庁が、これを定める。」(同法四九条)、「第二一条第一項……第四九条……の監督庁は、当分の間、これを文部大臣とする。」(同法一〇六条)と規定し、高等学校の教科用図書に関する定めとして「高等学校の教科用図書は、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものを使用しなければならない。」(学校教育法施行規則―昭和二二年文部省令一一号―五八条)とされ、ここに戦後の教科書検定制度が発足することになった。もっとも、当時、教科書については、国定制の廃止に主たる眼目があり、自由発行制でなく検定制を採用するについての十分な議論はなされなかった。

なお、昭和二三年七月制定公布された教育委員会法(同年法律第一七〇号。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の制定に伴い、昭和三一年九月三〇日限り廃止。)五〇条によって、教科書検定の事務は、都道府県教育委員会の権限に属する事項(私立学校については都道府県知事に属する。)とされたが、当時の国内の用紙事情悪化のため、同法八六条により「用紙割当制が廃止されるまで、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書のうちから、都道府県委員会が、これを採択する。」と定められた。右の規定及び前記学校教育法一〇六条の規定から明らかなように、戦後の教育改革においては、文部大臣の検定権限は、暫定的なものとされていた。

文部省は、右教科書検定制度の発足に備え、教科書制度に関する諮問機関として教科用図書委員会(昭和二四年七月に教科用図書審議会と改称。)を設け、その審議の結果に基づき、昭和二三年四月、教科用図書検定規則(同年文部省令第四号)を公布し、昭和二四年四月、教科用図書検定基準を文部省告示として公にした。これに先立ち、文部省は、「教科書検定に関する新制度の解説」を発表しているが、その中で、教科書につき執筆者の資格を問わないこととして検定の門戸を広く開き、教科書執筆者の創意工夫に期待し、自由な競争によりすぐれた内容を持つ多様な教科書が確保されるべきことを強調している。

この間、文部大臣の諮問を受け教科用図書原稿を調査する機関として、教科用図書検定委員会が昭和二三年五月に設けられた。その後、同委員会は昭和二五年五月に右教科用図書審議会と一本化され、教科用図書検定調査審議会と改組され、現在に至っている。

ところで、学校教育法二〇条の「小学校の教科に関する事項は、第一七条及び第一八条の規定に従い、監督庁が、これを定める。」との規定(中学校につき同法三八条、高等学校につき同法四三条)にいう「監督庁」については、当分の間これを文部大臣とし(同法一〇六条)、また、学校教育法施行規則(昭和二二年文部省令第一一号―昭和三三年文部省令第二五条による改正前のもの)二五条によれば、「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱いについては学習指導要領の基準による。」(中学校につき五五条、高等学校につき五七条)と定められたが、既に文部省は、前記教科書検定制度の発足に先立つ昭和二二年三月に、新しい教育課程の基準として学習指導要領一般編及び各教科編を作成している。しかしながら、これはかなり早い時期に作成されたものであって、その表紙にも「(試案)」と明記され、その一般編の序論には、教育課程につき教師自身が自分で研究していく手引きである旨の記載もあった。

戦後の教育改革の中で、教育行政制度も大きな変革をみた。前記教育刷新委員会の建議を受けて、昭和二三年七月前記の教育委員会法が制定されたが、同法は、教育行政の地方分権化のため地方自治体にそれぞれその地域の教育に関する責任行政機関として教育委員会を置き、その委員を公選制として教育行政の民主化を図り、また、教育委員会を一般行政機関から独立した委員会とすることにより教育の自主性を確保することとした。同法五〇条二号は、都道府県委員会の事務として「文部大臣の定める基準に従い、都道府県内のすべての学校の教科用図書の検定を行うこと」を挙げており、戦後の教育改革における教科書検定制度の在り方として、地方の実情に応じて一般行政機関から独立した教育委員会が検定を行うこととする一方、それを文部大臣の定める基準に従って行うこととして教科書の内容の全国的な一定の水準の確保を図るという構想が存在したのである。

(二) 昭和二七年四月二八日、構和条約が発効して占領状態が終結したが、翌二八年八月、「学校教育法等の一部を改正する決律」(同年法律第一六七号)により教科書の検定権限は、それまで建前として都道府県教育委員会(私立学校においては都道府県知事)に属するとされていたのが改められ、恒久的に文部大臣に属することとなった。

ところで、衆議院行政監察特別委員会は、昭和三〇年六月から一二月にかけて、教科書の不公正取引、偏向等の問題を取り上げ、証人喚問を行い、各方面から、検定に関与する機関、検定の手続、審査方法その他教科書を巡る制度及びその運用全般につき問題が指摘されたが、同委員会は、偏向問題に関する石井一朝の証言等を重視し、「一部教科書のうちには事象に対する叙述の誤っているものや、教育基本法にもとり一方的見解におわっているものがあ」る等として、検定制度の再検討を政府に要望した。一方、日本民主党は、同年二月の総選挙において、その選挙綱領の中で「文教の刷新・施設の整備・国定教科書の統一」を公約し、同年八月から一一月にかけて「うれうべき教科書の問題」と題するパンフレット(全三集)を出版し、その第一集で、「教科書にあらわれた偏向教育とその事例」として、「四つの偏向タイプ」すなわち、(1) 教員組合をほめたてるタイプ―宮原誠一編の高等学校用「一般社会」(実教出版)、(2) 急進的な労働運動をあおるタイプ―宗像誠也編の中学校用の「社会のしくみ」(教育出版)、(3) ソ連・中共を礼讃するタイプ―周郷博、高橋磌一、日高六郎の小学校六年用の「あかるい社会」(中教出版)、(4) マルクス=レーニン主義の平和教科書―長田新編の「模範中学社会」三年用下巻を指摘した。

その後、同年九月には教科用図書検定調査審議会委員の交替があり、その直後に行われた昭和三二年度用教科書の検定においては八種類の社会科教科書が不合格となったが、なかんずく中教出版株式会社発行岡田謙監修、日高六郎、長州一二他編著「日本の社会」は当時発行部数五〇万部を超えていただけに斯界に波紋を投じた。

このような時代的背景のもとに、中央教育審議会(以下「中教審」という。)の答申を受けて、文部省は「教科書法」案を立案した。そして、昭和三一年の第二四回国会に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」案とともに「教科書法」案が提出された。前者は、教育委員の直接公選を改め、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するものとし、後者は、教科書の検定、採択、発行、供給の全般にわたって法制を整備しようとするものであったが、右二法案に対しては、教育に対する国家統制の復活を促すものであるとして、矢内原東大学長のいわゆる「十大学長声明」を初め多くの批判が出され、結局、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は成立したものの、教科書法は成立せず、廃案となった。しかし、文部省は、同年中に行政措置により中教審の委員を従来の一六名から八〇名に増員し、新たに同省に専従の教科書調査官四〇名を設け、検定申請のあった教科書原稿の調査等に当たらせることとなった(昭和三一年文部省令第二六号による文部省設置法施行規則の改正)。

教育課程の基準とされた学習指導要領は、昭和二二年作成以降本件検定処分当時までに一〇回の改訂、すなわち、(1) 昭和二六年小・中学校及び高等学校用の全面改訂、(2) 昭和三〇年一二月小・中学校の社会科のみ改訂、(3) 昭和三一年高等学校用のみ全面改訂、(4) 昭和三三年一〇月小・中学校用の全面改訂、(5)昭和三五年一〇月高等学校用のみ全面改訂、(6) 昭和四三年七月小学校用のみ全面改訂、(7) 昭和四四年四月中学校用のみ全面改訂、(8) 昭和四五年一〇月高等学校用の全面改訂、(9) 昭和五二年七月小・中学校用の全面改訂及び(10) 昭和五三年八月高等学校用の全面改訂(本件検定処分に適用のもの)を経由した。これらの改訂は、いずれも教育課程審議会の答申に基づくもので、昭和三三年の小・中学校の各学習指導要領改訂以降は、文部省の告示をもって公示されるようになった。また、教科用図書検定基準も同年に改訂されたが(同年文部省告示第八六号)、高等学校社会科(「地図」を除く。)の必要条件をみると、「(内容の選択)内容には、学習指導要領の示す教科の目標および科目または学年の目標の達成に適切なものが選ばれているか。(1) 教科の目標、科目または学年の目標および学習指導要領に示す内容に照らして、必要なものが欠けていない。(2) とりあげた内容には、教科の目標および科目または学年の目標を達成するうえに適切でないものはない。(3) 注・さし絵・写真・地図・図表・問題などには、教科の目標および科目または学年の目標を達成するうえに必要なものがえらばれており、適切でないものは含まれていない。」とされており、改訂前の同基準と比較して、学習指導要領との一致を要求するものとなっている。

昭和三八年「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(同年法律第一八二号)が成立し、小・中学校教科書の無償給与制が確立するとともに、少・中学校の教科書については都道府県教育委員会が採択地区設定権をもち(同法一二条一項)、いわゆる広域統一採択制(同法一二条一項、一三条三項)が採られ、文部大臣が教科書発行者を指定できるようになった(同法一八条)。

教科用図書検定調査審議会は、昭和五二年一月二六日、文部大臣に対し、「教科書検定制度の運用の改善について」建議し、これを受けて、文部大臣は、同年九月二二日教科用図書検定規則を改正し(同年文部省令第三二号)、更に、義務教育諸学校教科用図書検定基準(昭和五二年文部省告示第一八三号)、高等学校教科用図書検定基準(昭和五四年文部省告示第一三四号)、義務教育諸学校教科用図書検定基準実施細則(昭和五二年九月二二日文部大臣裁定)及び高等学校教科用図書検定基準実施細則(昭和五四年七月一二日文部大臣裁定)を定めた。右検定基準について高等学校社会科(「地図」を除く。)の必要条件をみると、(範囲)教科用図書において取り扱う範囲は、学習指導要領に示す目標及び学習指導要領に示す内容によっていること。(1) 学習指導要領に示す内容を取り上げていること。(2) 学習指導要領に示す目標及び学習指導要領に示す内容に照らして、不必要なものは取り上げていないこと。」とされており、更に一層学習指導要領との一致を要求するものとなっている。

(三) 自由民主党の機関紙「自由新報」は、昭和五五年一月二二日から同年八月一二日まで一九回にわたり、「いま教科書は―教育正常化への提言」と題する連載記事を掲載して教科書批判のキャンペーンを展開したが、その後、同党は、教科書制度を含む戦後教育の見直しに取り組む方針を明らかにした。これと前後して、石井一朝の「新・憂うべき教科書の問題」、森本真章らの「疑問だらけの中学教科書」、財団法人経済広報センターの「経済教育Ⅰ・Ⅱ」など教科書を批判する著作が相次いで出版された。右のような批判を容れて、昭和五八年四月二四日、教科書発行業者の組織である教科書協会は、同月から全面改訂されて使用を開始した中学校社会科「公民」を三年後に再び全面改訂することを文部省に申し入れた。他方、同年七月一〇日、高等学校用教科書についての昭和五五年度の検定結果が公表されるのと前後して、右検定は、右教科書批判を容れた厳しい運用であるとして、これに対するジャーナリズム等の批判も高まった。

こうした時代的背景のもとで、昭和五七年六月二五日に、昭和五六年度に検定申請がされ、昭和五八年度から使用予定の高等学校の社会科教科書等についての検定の結果が発表されたが、これに対し、検定を一層強化するものであるとするジャーナリズムを中心とする国内の批判が広がるとともに、とりわけアジア諸国からの批判も相次ぎ、問題化した。そして、同年七月二六日、中国政府から、日本の新聞の報道からみて、「侵略」、南京事件等の検定例のように、検定で日本軍国主義が中国を侵略した事実が改ざんされ、歴史の事実が歪められているとし、これらは日中共同声明の精神等に反するので、日本政府により教科書の誤りが正されることを切望するとの公式の抗議の申入れがあり、次いで同年八月三日、韓国政府からも同様の申入れがなされ、ここに、日中、日韓の歴史の記述を巡る教科書検定問題は外交問題に発展した。そこで、日本政府は、同月二六日に、「歴史教科書」についての官房長官談話を発表したが、同談話は、「今日、韓国、中国等より……わが国教科書の記述について批判が寄せられている。わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。」とし、更に政府による是正の内容として、「今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それまでの間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記……の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。」としている。なお、右談話中の「政府の責任において是正する」ことの意味について、宮沢官房長官は、同月二七日に衆議院文教委員会において「よりよいものに改めたい、こういうことでございます。」と、同年九月一四日に参議院決算委員会において「歴史教科書の記述におきまして、アジアの近隣諸国との友好親善の精神がより適切に反映されるようにするということであると理解をいたしております。」と答弁した。

そして、文部大臣は、同年九月一四日、教科用図書検定調査審議会に対し、「歴史教科書の記述に関する検定の在り方について」諮問し、同審議会は、同年一一月一六日に答申を行った。文部省は、右答申に基づき、同月二四日、義務教育諸学校教科用図書検定基準及び高等学校教科用図書検定基準をそれぞれ改正し、社会科の必要条件の[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)の中に、「(15)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」との規定をそれぞれ追加するとともに、この基準を昭和五七年度の検定から適用することとし、また、昭和五六年度に検定を終えた高等学校の歴史教科書について、次期改訂検定を一年繰り上げて昭和五八年度に実施することとした。更に、文部大臣は、昭和五七年一一月二五日付の文部広報において談話を発表し、右の措置を明らかにするとともに、昭和五六年度に検定を終えた高等学校の歴史教科書については、正誤訂正の手続によって修正することはしない旨明言した。また、文部広報の右記事は、右談話の説明として、「昨年度に検定を終えた高等学校の日本史及び世界史の教科書は、学習上支障があるものではないので、その修正は改訂検定によって行われるものであり、正誤訂正の手続によって行われるものではないことを示す」ものであるとしている。

第二現行教科書検定制度の概要

一教科書の意義

教科書の意義について、法律上は、教科書の発行に関する臨時措置法(昭和四五年法律第四八号による改正後のもの。以下同じ。)二条によれば、「『教科書』とは、小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教育課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であって、文部大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有するものをいう。」と定義付けられている。他方、学校教育法(昭和四五年法律第四八号による改正後のもの。以下同じ。)二一条一項、四〇条、五一条によると、小学校、中学校及び高等学校では、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならないと定められている。

右の各規定及び後記四の検定基準と<証拠>に照らし考察すると、現行法制下での教科書の特質として、次のような点を指摘することができる。

1  教科書は、前記諸学校においてその授業に使用する教材の中で中心的役割を果たすべき「主たる教材」であって、他の副読本、参考書など「教科用図書以外の図書その他の教材で、有益適切なもの」(学校教育法二一条二項)、すなわち補助教材と称されるものと区別される。

2  教科書は、右諸学校において心身ともに発達の過程にあって教育内容に対する批判能力に乏しい児童・生徒に対して教授用として使用されるものであって、児童・生徒の発達段階に応じた適切な教育的配慮が必要である。

3  教科書は、教科の主教材としてその系統的、組織的な学習に適するように各教育課程の構成に応じて組織配列されたものでなければならず、単なる知識や技能の羅列されたものではなく、また、学問的、学術的研究発表の場を提供するためのものでもない。

4  教科書は、右諸学校において教授に当たりその使用を義務付けられているものである。

以上の各点に公教育たる学校教育においては国民の教育を受ける権利を保障するために教育の機会均等と教育水準の維持向上が要請されるものであることなどを合わせ考えると、教科書については、その内容について一定の水準が保たれる必要があり、内容の正確性、立場の中立・公正(教育基本法八条二項にも、その趣旨の一端が現れているといえる。)が要求されるとともに、子どもの発達段階に応じた理解能力に合わせて、教科の系統的組織的な学習に適するように、各教科課程の構成に応じた内容の選択及び組織配列が求められるなど教育的配慮が必要であるというべきである。もっとも、戦前における教育にあっては、教科書は暗記の対象とされ、教育とは教科書を教えるものとされていたのに対し、現在の教育制度においては、戦後の教育改革を経て、教科書も一つの教材であるとされ、教育についての観念も教科書をもって教えるというように変化しているということができるが(文部省調査普及局編「日本における教育改革の進展」―甲第二四号証―一〇頁、昭和二六年改訂版 中学校高等学校学習指導要領社会科編―甲第四二二号証―一一頁参照)、このことをもって、教科書についての右の教育的配慮の要請が必要性を失ったとすることはできない。また、教育の機会均等や教育水準の維持を強調することは、教育内容の画一化をもたらし、教育を硬直させ、かえって子どもの個性的発達を阻害する結果を招来する虞がないわけではないけれども、このような虞があるからといって、教育内容の一定水準の保持の必要性自体を否定することはできない。更に、小・中学生と高校生とでは、その心身発達の程度や授業内容に対する理解ないし批判能力に相当の差異が存し、他方、高校生と大学生、とりわけ教育課程のそれとの間においては、右の点での差異は、質的に画然としたものではなく、段階的なものにすぎないといい得るが、このことから高校生の発達段階に応じた教育的配慮の必要性が否定されるものでもない。高等学校は、小・中学校がそれぞれ「初等普通教育」・「中等普通教育」を施すのを目的とする(学校教育法一七条、三五条)のに対して、その目的を「中学校における教育の基礎の上に心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すこと」(同法四一条)としており、高等学校教育も、普通教育の一環として、高等普通教育の分野では、小・中学校教育の共通の基盤の上に立ち、その延長線上にあるものであるから、それが義務教育に属さないとはいえ、教育の機会均等の確保のため、地域・学校別等の如何にかかわらず、全国的にある一定の水準を維持することが強く要請されるというべきである(最高裁昭和五一年(あ)第一一四〇号同五四年一〇月九日第三小法廷判決・刑集三三巻六号五〇三頁参照)。もとより、右のような教育的配慮が要請される教科書制度を採用するかどうかは、立法政策の問題であって、教科書が教育の教材としての図書であるから直ちに右のような教育的配慮の必要性が導かれるものではないが、現行の教育関係法令は、教科書について右のような教育的配慮を要請する教科書制度を採用しているということができ、これが憲法及び教育基本法の各規定に違反するものではないことは、後に第四において判示するとおりである。

二教科書検定の権限

学校教育法二一条一項は、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定め、この規定は、同法四〇条で中学校に、同法五一条で高等学校に、同法七六条で盲学校、聾学校及び養護学校にそれぞれ準用されている。ただし、同法一〇七条は、「高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校並びに特殊学級においては、当分の間、第二一条第一項(第四〇条、第五一条及び第七六条において準用する場合を含む。)の規定にかかわらず、文部大臣の定めるところにより、同条同項に規定する教科用図書以外の教科用図書を使用することができる。」と定めているが、これは、高等学校については検定済教科書又は文部大臣が著作権を有する教科用図書のない場合をいうのであり、この場合には、当該高等学校の設置者の定めるところにより、他の適切な教科用図書を使用することができるものとされている(同法施行規則五八条)。

後に第四、四において詳述するように、教科書検定の権限、検定の基準、手続等について直接規定した法律の明文は存しないが、右の学校教育法の諸規定は、小・中・高等学校等において使用する教科書が、原則として文部大臣の検定を経たいわゆる検定済教科書か、又は文部省が著作の名義を有する教科書でなければならないことを定めるとともに、教科書検定を行う権限を文部大臣に付与したものと解することができる。

また、文部省の職務権限を明らかにしている文部省設置法(昭和五八年法律第七八号による改正前のもの。以下同じ。)五条一項は、「文部省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため、次に掲げる権限を有する。ただし、その権限の行使は、法律(これに基づく命令を含む。)に従ってなされなければならない。」とし、右権限としてその一二号の二に「教科用図書の検定を行うこと。」を掲げており、学校教育法八八条及び一〇六条一項に基づく省令として定められている教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号)において、教科書検定の具体的手続が規定されている。更に、教科書の発行に関する臨時措置法二条一項も、「この法律において『教科書』とは、(中略)文部大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有するものをいう。」と規定しているところであり、以上の諸規定は、いずれも文部大臣が教科書検定の権限を有することを前提とするものと解し得るのである。

三教科書検定の組織

1  文部大臣の補助機関

教科書検定は、文部省の所掌事務に属し(文部省設置法五条一項一二号の二)、同省内部では初等中等教育局の担当とされ(同法八条一三号の二)、更に同局には教科書検定課が置かれ、同課において、教科用図書検定基準の作成及び改訂等初等中等教育用教科書の検定並びに教科用図書検定調査審議会(ただし教科用図書分科会及び教科用図書価格分科会に関することを除く。)に関すること等をつかさどることとされている(文部省組織令―昭和五九年政令第二二七号による改正前のもの。以下同じ。―一二条)。同局には、検定申請のあった教科用図書及び通信教育用学習図書の調査に当たる者として、教科書調査官(文部省設置法施行規則―昭和五九年文部省令第三七号による改正前のもの。以下同じ。―五条の二)が置かれているところ、教科書調査官は、昭和三一年一〇月の文部省令第二六号をもって新たに設置されたものであって、その員数は、別に定める定数の範囲内でこれを置くこととされており(同施行規則五条の二第一項)、弁論の全趣旨によると、昭和五五年度検定当時においては教科書調査官四三名であり、そのうち社会科担当の調査官は一一名で、昭和五八年度検定当時においては教科書調査官四九名で、そのうち社会科担当の調査官は一五名であったことが認められる。そして、全調査官のうちから一四名以内の者を担当する教科を定めて、当該教科につき調査官の事務の連絡調整に当たる主任教科書調査官とすることができるものとされている(同施行規則五条の二第三項)。

2  教科用図書検定調査審議会

教科用図書検定調査審議会(以下「審議会」という。)は、検定申請の教科用図書を調査すること等を目的として文部省に設置されたもので(文部省設置法二七条一項)、その内部組織、所掌事務及び委員その他の職員に関しては、同条二項により政令に委任され、教科用図書検定調査審議会令(昭和五九年政令第二二九号による改正前のもの。以下「審議会令」という。)がこれを規定している。

(一) 審議会の所掌事務は、文部大臣の諮問に応じ、検定申請の教科用図書及び通信教育用学習図書を調査し、及び教科用図書に関する重要事項を調査審議し、並びにこれらに関し必要と認める事項を文部大臣に建議することとされている(審議会令一条)。

(二) 審議会には、その所掌事務を分担させるために、教科用図書検定調査分科会、教科用図書分科会及び教科用図書価格分科会の三分科会が置かれている(審議会令六条)。

このうち教科用図書検定調査分科会は、検定申請の教科用図書及び通信教育用学習図書に関する事項を分担し、同分科会で右教科用図書の調査・審議が行われるが、同分科会は、更に各教科を分担する第一部会から第九部会まで(日本史を含む社会科は第二部会)と、各部会の分担事項の総括的事項及びこれらの部会の分担事項のいずれにも属しない事項に関することを担当する総括部会とに分かれている(審議会令一〇条一項、教科用図書検定調査分科会の部会の設置および議決事項の取扱に関する規程―昭和四五年一二月九日教科用図書検定調査分科会決定。以下「分科会規程」という。―一条)。また、部会においては、調査審議の上に専門的な調査の必要があると認めるときは、小委員会を置くことができるものとされている(分科会規程二条)。

そして、検定基準の作成及び改訂その他の重要事項で、会長において審議会の議決を経る必要があるとあらかじめ認めた事項と文部大臣に対する建議に関する事項とを除き、分科会の議決をもって審議会の議決とされ(審議会令九条、教科用図書検定調査審議会規則―昭和三一年一一月三〇日教科用図書検定調査審議会決定。以下「審議会規則」という。―一四条)、更に、分科会長において分科会の議決を経る必要があるとあらかじめ認めた事項に関するものを除き、部会の議決をもって分科会の議決とするものとされている(審議会令一〇条四項、分科会規則三条)。したがって、通常、個々の教科書検定に関する右部会の合否の決定は、すなわち審議会の決定とされ、そのまま大臣に答申されることになる。

(三) 審議会の委員は、一二〇名以内とされ(審議会令二条一項)、教育職員、学識経験者及び関係行政機関の職員のうちから文部大臣が任命するものとし(審議会令三条一項)、特別の事項を調査審議するため必要があるときは、文部大臣は、審議会の意見を聴いて、右審議会事項の継続する期間に限り、学識経験者のうちから臨時委員を任命することができるものとされている(審議会令二条ないし四条の各二項)。審議会の委員及び臨時委員は、文部大臣の指名により、三分科会のいずれかに分属し、各分科会に属する委員により分科会長として互選された者が、各分科会の会務を掌理するものとされている(審議会令七条、八条一項)。各分科会に属する委員及び臨時委員をいずれの部会に所属させるかは、各分科会長の指名により決められる(審議会令一〇条二項)。なお、弁論の全趣旨によれば、教科用図書検定調査分科会に分属する委員は、昭和五五年度検定当時は八四名、昭和五八年度検定当時は八五名であり、第二部会に所属する委員は、昭和五五年度検定当時は一八名、昭和五八年度検定当時は一九名であったことが認められる。

また、審議会には、検定申請のあった教科用図書及び通信教育用学習図書の原稿を調査させるため、調査員が置かれ(審議会令二条三項)、専門の事項を調査するため必要があるときは専門調査員を置くこともできる(同条四項)。右調査員及び専門調査員は、文部大臣が学識経験者のうちから審議会の意見を聞いて任命するものとされている(審議会令三条二項)。

(四) 審議会の庶務は、文部省初等中等教育局において処理するものとされ(審議会令一二条)、審議会には幹事若干名を置くが、幹事には、文部省の職員で審議会会長が委嘱した者がなるものとされている(審議会規則一五条一項)。幹事は、会長の命を受け、審議会の会議の資料及びその結果を整理し、その他庶務をつかさどるとともに、審議会の議事の概要を記載した議事録を作成する任に当たるものとされている(同条二、三項)。そして、証人木谷雅人の証言及び弁論の全趣旨によると、運用上、教科書調査官が幹事の委嘱を受けていたことが認められる。

四本件各検定処分当時の検定基準

教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号)三条は、「教科用図書の検定の基準は、文部大臣が別に公示する教科用図書検定基準の定めるところによる。」と規定しており、右規定に基づき、文部大臣は、高等学校教科用図書検定について、高等学校教科用図書検定基準(昭和五四年文部省告示第一三四号。以下「検定基準」という。乙第二号証)を定め、更に検定基準第四章の規定に基づき、高等学校教科用図書検定基準実施細則(昭和五四年七月一二日文部大臣裁定。乙第三号証)を定めている。

検定基準は、全教科に共通な三項目の基本条件と各教科別に定められた必要条件から成り立ち、その内容は次のとおりである。

1  基本条件

教科用図書原稿が、以下の各項目を充たしているかどうか審議するもので(検定基準第一章)、このいずれかを欠くときは、当該原稿は教科書として絶対的に不適格となる性質のものである。

「1 (教育の目的との一致)

教育基本法に定める教育の目的、方針などに一致していること。また、学校教育法に定める高等学校の目的及び教育の目標に一致していること。

2  (教科の目標との一致)

学習指導要領に示すその教科の目標に一致していること。

3  (取扱い方の公正)

政治や宗教について、その取扱い方が公正であること。特定の政党や宗派又はその主義や信条に偏ったり、それらを非難したりしていないこと。」

2  必要条件

教科用図書原稿が、以下の各項目に照らし適切であるかどうかを審査するもので(検定基準第一章)、各教科ごとに定められ、これに適合しないときは欠陥のある教科書とされるが、基本条件を充たさないときのように絶対的に不適格となる性質のものではない。その内容は、実質的には各教科ほぼ共通であるが、社会科(「地図」を除く。)の場合は次のとおりである。

「[教科用図書の内容とその扱い]

1  (範囲)

教科用図書において取り扱う範囲は、学習指導要領に示す目標及び学習指導要領に示す内容によっていること。

(1) 学習指導要領に示す内容を取り上げていること。

(2) 学習指導要領に示す目標及び学習指導要領に示す内容に照らして、不必要なものは取り上げていないこと。

2  (程度)

程度は、生徒の心身の発達段階に適応していること。

(1) 本文、問題、資料、注などには、生徒の能力からみて、程度が高過ぎるところ又は低過ぎるところはないこと。

(2) さし絵、写真、地図、図、表などには、生徒の能力からみて、理解が困難なものはないこと。

3  (選択・扱い)

選択及び扱いは、学習指導を進める上に適切であること。

(1) 本文、問題、資料などの選択及び扱いには、学習指導を進める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこと。

(2) 学習指導を進める上に必要なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。

(3) 本文、問題、資料、さし絵、写真、注、地図、図、表などは、いたずらに網羅的・羅列的になることなく、精選されていること。

(4) 全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと。

(5) 統計などの資料は、信頼性のあるものが選ばれていること。

(6) 本文、問題、資料、さし絵、写真、注、地図、図、表などにおいて、生徒の生活や経験及び興味や関心に対する配慮がなされており、自主的・自発的な学習をするように指導する上にも適切であること。

(7) 現代の社会生活や科学技術の進歩に対応したものが、生徒の発達段階に即し、必要に応じ適切に選ばれていること。

(8) 他の教科及び科目並びに特別活動との関連が必要に応じて配慮されており、これらにおける指導との矛盾や不必要な重複はないこと。

(9) 心身の健康や安全について必要な配慮を欠いているなど、学校教育全般の方針や慣行に反しているところはないこと。

(10) 健全な情操の育成について必要な配慮を欠いているところはないこと。

(11) 特定の地域だけに適するようになっていないこと。

(12) 目次、索引、凡例などは、必要に応じて適切なものが用意されていること。

(13) 引用された資料には、必要に応じて出所や出典が示されていること。

(14) 特定の営利企業、商品などの宣伝や非難になるおそれのあるところはないこと。

(15) 近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。(但し、この項は、昭和五七年文部省告示一五一号による改正に伴い、追加されたものである。)

4  (組織・配列・分量)

組織、配列及び分量は、学習指導を有効に進める上からみて、適切に考慮されていること。

(1) 全体として系統的・発展的に組織されていること。

(2) 本文、問題、資料などの配列や関連は適切であること。

(3) さし絵、写真、注、地図、図、表などの位置及びこれらと本文との関連は適切であること。

(4) 組織及び配列において、不統一や無用の重複のないこと。

(5) 分量及び配分は適切であること。

(6) 全体の分量は、学習指導要領に示す標準単位数に対応する授業時数で、ゆとりをもって指導できるものであること。

[教科用図書の内容の記述]

1  (正確性)

誤りや不正確なところはないこと。また、一面的な見解だけを、十分な配慮なく取り上げているところはないこと。

(1) 本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに誤りや不正確なところはないこと。

(2) 本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに相互に矛盾しているところはないこと。

(3) 一面的な見解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりするところはないこと。

(4) 誤植、脱字などはないこと。

2  (表記・表現)

文章、さし絵などの表現に冗長又は粗雑なところなどはないこと。また、漢字、用語などの表記は適切であり、これらに不統一はないこと。

(1) 語句、文章、さし絵、写真、地図、図、表などには、生徒がその意味を理解するのに困難であったり、誤解したりするおそれのある表現はないこと。

(2) 文章は冗長又は拙劣でないこと。また、さし絵、地図、図などは粗雑でないこと。

(3) 漢字、仮名遣い、送り仮名、ローマ字つづり、用語、記号などの表記は適切であり、これらに不統一はないこと。

[教科用図書の体裁]

判型、分冊、印刷、製本などは適切であること。

(1) 判型及び分冊は適切であること。

(2) 表紙、見返しなどの図書の各部の表示は適切であること。

(3) 文字、図版、写真などの印刷は鮮明であること。

(4) 文字の大きさ、字間・行間及び書体は適切であること。

(5) 用紙並びに製本の様式及び材料は適切であること。

(6) その他の体裁に欠陥はないこと。

[創意工夫]

学習指導要領に示す目標を達成する上において、教科用図書として適切な創意工夫が認められること。

(1) 教科及び科目の目標とする能力や態度を育成する上に適切な創意工夫が認められること。

(2) 精選が十分なされており、基礎的・基本的事項の理解や修得の徹底を図る上に適切な創意工夫が認められること。

(3) 選択、扱い、組織、配列、表現などに適切な創意工夫が認められること。」

五教科書検定の手続と運営

教科書検定の手続については、教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号。以下「検定規則」という。)がこれを規定するほか、その実施細目として「教科用図書検定規則の実施の細目」(昭和五四年文部省初等中等教育局長通知。以下「実施細目」という。乙第五号証)が定められている。

1  検定の種類

検定には、新たに編修された図書について行う「新規検定」と、検定を経た図書の改善を図るために加えられた個々の改訂箇所について行う「改訂検定」とがあるが(検定規則四条)、検定を経た後に改訂を加えた図書のうち、その改訂がページ数の四分の一以上にわたる図書については、新たに編修したものとみなされ、新規検定の申請を行うものとされている(検定規則六条二項、三項)。

以下においては、まず新規検定の手続と運営についてこれをみることとし、後記5において改訂検定の手続と運営について特にこれが新規検定と異なる点をみることとする。

2  検定の受理

検定規則は、「図書の著作者又は発行者は、その図書の検定を文部大臣に申請することができる。」(六条一項)、「第一項の申請を行うことができる図書の種目並びに各年度において申請を行うことができる図書の種目及び期間は、文部大臣が別に定める。」(同条四項)と規定しているところ、<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

文部省は、各年度において申請を行うことができる図書の種目及び期間を定めるについて、教科書発行業者の組織である社団法人教科書協会を通じてあらかじめ検定申請予定者の意見を徴した上で、その年度に検定を受理する種目及び受理の時期等の事項について検定受理計画を立て、これを遅くとも当該年度の前年度の一一月頃までに告示し、教科書発行業者に示すこととしている。このようにして定められた受理計画に基づき、各発行者は、教科書を編修して検定申請を行うこととなるが、その検定、採択、使用開始は、三年周期で行われている。

更に、初等中等教育局長は、教科書発行業者あてにあらかじめ小・中・高等学校別の検定申請上の必要事項を書き送り、審査に必要な書類(原稿本及び添付書類)等を通知しているが、その中で、検定申請の際、原稿本の編修趣意書を添付すべきこととしている。これは、学習指導要領に示された内容と原稿内容とを対比できるように示すとともに、編修上特に意を用いた点や特色などの編修上の配慮事項を記載することになっているものである。

次に、検定規則五条によれば、教科用図書の検定は、原稿本審査、内閲本審査及び見本本審査を経て行うこととされているところ、新規検定の際、申請者から提出する原稿は、著作者又は発行者が誰であるかにとらわれることなく、審査を公正にするため、著作編修関係者の氏名、発行者の氏名、発行者のマーク、発行者を表すカット又は図書の名称が記載されていない白表紙のもの(通常これを白表紙本と呼んでいる。)を提出すべきものとされている。

3  審査

<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一) 原稿本審査

(1) 誤記、誤植又は誤字に関する審査

(検定規則八条、実施細目一章二節)

文部大臣は、教科用図書原稿の検定申請の受理後、申請者立合いの下に、原稿本から無作為抽出により連続する一〇ページを選定して誤記、誤植又は誤字に関する審査を行い、その中に、国語科及び外国語科については五箇所、その他については日本工業規格A列五番の図書で一〇箇所、日本工業規格B列五番の図書で一五箇所を超えて、客観的に明白な誤記、誤植又は誤字が存在するときは、原稿本審査手続を停止し、その旨を申請者に通知する。通知を受けた者が、一定期間内にその原稿本に必要な修正を加えた後、再提出しなければ、文部大臣は、審議会の議を経て、検定審査不合格の決定を行うことができる。

(2) 原稿本の調査

右の審査の後、文部大臣は、申請に係る教科用図書原稿について、教科用として適切であるかどうかを審議会に諮問する(検定規則九条一項)。「教科用図書検定審査内規」(昭和五三年六月一五日教科用図書調査審議会決定。乙第七号証)によれば、原稿本の調査は調査員及び教科書調査官が行うものとされており、文部大臣から申請原稿本について諮問があると、直ちに調査員及び教科書調査官にそれぞれ調査依頼がされる。

申請原稿本が高等学校の日本史である場合には、社会科担当の全調査官(前認定のとおり昭和五五年度当時一一名、同五八年度当時一五名)の調査に付され、各調査官の調査後、右全調査官により調査官会議において調査の結果を検討し、各原稿本ごとに決められた主査及び副査がその結果をまとめて、各申請原稿本につき調査意見書及び評定書を作成する。他方、あらかじめ各都道府県教育委員会や大学から推薦された者の中から無作為抽出により各申請原稿本につき調査員三名(大学教授等の専門学識者一名、教員等二名)が選ばれ、それぞれが同一の申請原稿本につき調査した上、各自調査意見書及び評定書を作成する。

(3) 検定合否の判定

審議会は、右教科書調査官及び調査員の調査意見書及び評定書に基づき、申請原稿本の合否を判定することになるが、その手続は、以下のとおりである。

高等学校の日本史の教科用図書原稿については、審議会の第二部会(社会科)が、まず日本史小委員会を開き、そこで審議を行う。同小委員会では、前記調査意見書及び評定書について審議会の幹事である教科書調査官から報告が行われ、右調査の結果に基づき、審議を行う。小委員会の審議が終了すると、第二部会が開かれ、同部会では、小委員会の審議の結果について報告が行われた後、審議が行われ、教科用図書原稿の合否が決せられる。そして、通常は部会の議決をもって分科会及び審議会の議決とするものとされているので、第二部会の審議の結果が、審議会の審議の結果となる。

合否の判定は、前記「教科用図書検定審査内規」に従って行われるのであるが、その内容は、次のとおりである。

「第1 新規検定の申請に係る原稿本の調査及び合格又は不合格の判定について

1  原稿本の調査

(1) 原稿本の調査は、受理単位ごとに行う。

(2) 調査は、調査員及び教科書調査官(以下「調査者」という。)が行う。

(3) 調査を行う調査員の数は、同一の原稿本について原則として三人とする。

2  原稿本の合格又は不合格の判定

教科用図書検定調査審議会(以下「審議会」という。)は、調査者の調査に基づき、次により合格又は不合格を判定する。

(1) 基本条件の判定方法

調査者の調査の結果を検討し、三項目のそれぞれについて合否を判定する。

(2) 必要条件の判定方法

調査者の調査の結果を検討し、次の方法により合否を判定する。

ア 別表1の評定尺度により、創意工夫の項目以外の各項目の調査結果に一つでも「×」の評定記号があれば「否」と判定し、その他の場合には、イ以下に定めるところによる。

イ 創意工夫の項目以外の項目については、総点一〇〇〇点を別表3のとおり配点し、別表1の評定記号に応じて、別表4により評点を算定する。

ウ 創意工夫の項目については、別表2の評語に応じて別表5により評点する。

エ 上記イ及びウの評点の合計が八〇〇点以上のものは「合」と判定し、八〇〇点に達しないものは「否」と判定する。

(別表1)

必要条件の各項目(創意工夫の項目を除く。)についての評定尺度及び評定記号

大区分

評定記号

小区分

その項目については適格と認められる程度

欠陥がほとんどない。

欠陥が少しあるが、大きなものはない。

欠陥がやや多いが、大きなものはない。

その項目については不適格と認められる程度

ただし、他の項目に大きな欠陥がなければ全体として合格となる。

欠陥が相当多く、大きなものも少しある。

欠陥が相当多く、大きなものもやや多い。

大、小の欠陥が多い。しかし「×」と評定するには当たらない。

その項目の欠陥だけで他がいかによくても全体として不合格となる程度

×

致命的と認める欠陥があったり、又は大小の欠陥がはなはだしく多い。

(注) 上表の小区分の中には、そこに示されているもののほか、欠陥の質及び量を勘案して当該小区分に相当すると認められるものを含む。

(別表2)

創意工夫の項目についての評定尺度及び評語

評語

区分

創意工夫としては、特に指摘することがない。

部分的に、多少適切な創意工夫が認められる。

良上

良と優の中間程度と判定される。

相当広い範囲にわたって、かなり適切な創意工夫が認められる。

優上

優と秀の中間程度と判定される。

全体として極めて適切な創意工夫が認められる。

(別表3)

必要条件の各項目(創意工夫の項目を除く。)の配点

区分

項目

教科用図書の内容とその扱い

教科用図書の内容の記述

教科用図書の体裁

1範囲

2程度

3選択

扱い

4組織

配列

分量

1正確性

2表記

表現

国語(書写を除く。)

外国語

140

140

200

140

240

80

60

1,000

上記以外の教科

140

140

200

140

180

140

60

1,000

(別表4)

必要条件の各項目(創意工夫の項目を除く。)の評点

評定

記号

×

評点

項目別配点の100%

90%

80%

70%

60%

50%

0

(別表5)

創意工夫の項目の評点

評語

良上

優上

評点

0

10

20

30

40

50

第4  不合格となるべき理由に対する反論書の提出があった場合における原稿本の合格又は不合格の再判定について

1  不合格となるべき理由に対する反論書の調査は、教科書調査官が行う。

2  審議会は、教科書調査官の調査の結果を検討し、反論の認否を判定する。

3  反論の一部又は全部について認める場合は、第1の2及び第2の2により改めて合格又は不合格を判定する。また、反論の全部について認めない場合は、「不合格」と判定する。」

更に、右内規の実施細目として、「教科用図書検定審査内規の実施に関する細目」(昭和五三年六月一五日教科用図書検定調査審議会決定。甲第八八号証末尾参照。)が定められているが、その内容は、次のとおりである。

「第1 原稿本の調査について

「教科用図書検定審査内規」(昭和五三年六月一五日決定。以下「内規」という。)の第1の1の原稿本の調査を行うに当たっては、次の箇所を指摘するものとする。

1  欠陥と判断される箇所で、原稿本に訂正、削除又は追加などの措置をしなければ教科用図書として不適切であると判断されるもの(以下「修正意見相当箇所」という。)

2  修正意見相当箇所として指摘するには至らないが、原稿本に訂正、削除又は追加などの措置をした方が教科用図書としてよりよくなると判断されるもの(以下「改善意見相当箇所」という。)

第2 原稿本の合格又は不合格の判定について

1  内規の第1の2の(2)により、必要条件の合否を判定するに当たっては、必要条件の項目ごとに次により評定記号を求めるものとする。

(1)  項目ごとに、修正意見相当箇所の欠陥の程度に応じ、次の表により欠陥の点数を求め、それを合計して欠陥の総点数(以下「項目点」という。)を算出する。

欠陥の程度が普通である箇所

欠陥の程度が軽徴である箇所

欠陥の点数

5

1

(注)

ア 欠陥の程度が「普通である箇所」及び「軽微である箇所」の中間であると判断されるものについては、その程度に応じ、欠陥の点数を両者の中間の点数とすることができる。

イ 欠陥の程度が大きなものについては、その程度に応じ、欠陥の点数をこの表の2倍、3倍などとすることができる。

ウ 同一の欠陥と判断される箇所が繰り返してあるときは、それらの箇所を一括して一つの欠陥とし、その程度に応じて欠陥の点数を求めることができる。

エ (省略)

オ 修正意見相当箇所のうち、その欠陥が制度の改正その他やむを得ない事情に基づくものであって、申請者の責任とすることが適切でないと認められるものについては、欠陥の点数としては算出しないものとする。

(2)  前項により算出した項目点のその図書のページ数に対する割合に応じ、次の表により項目別に評定記号を求める。

評定記号

×

項目点のページ数に対する割合

5%未満

5%以上~30%未満

30%以上~55%未満

55%以上~70%未満

70%以上~90%未満

90%以上~110%未満

110%以上

(注) ページ数は、検定受理単位ごとの原稿本のページ数(B5判の原稿については、そのページ数1・5を乗じたもの。)とする。

(3)  次の各項の一に該当する場合には、前項により評定記号を求めた結果について調整を行う。この場合、前項により求めた評定記号より一段階下のものに調整することを原則とする。

ア 修正意見相当箇所による評定の結果が当該評定記号にようやく達してはいるが、改善意見相当箇所の数が多いため、総合的に判断してその評定記号に決定することが著しく不適切であると認められる場合

イ アの場合のほか、改善意見相当箇所数が非常に多い場合など、総合的に判断して、修正意見相当箇所のみによる評定によっては評定の結果が著しく不適切になると認められる場合

(注) 前2項の改善意見相当箇所のうちには、その欠陥が制度の改正その他やむを得ない事情に基づくものであって、申請者の責任とすることが適切でないと認められるものは、含めないものとする。」

右内規及び内規の実施に関する細目によれば、要するに、検定の際の評定は、基本条件については、「合」「否」いずれかに判定し、また、必要条件については、検定基準所定の項目のうち創意工夫の項目を除く各項目について別表1所定の七つの評定尺度によって検討したうえ、欠陥度の最も高い「×」記号が付された項目が一つでもあるときは他がいくらよくてもその項目の欠陥だけで「否」と判定し、「×」記号が付された項目がないときは、創意工夫を除く項目について、総点を一〇〇〇点とし、これを別表3のとおり配点して、別表1の評定記号に応じて別表4により評点し、創意工夫の項目について別表5により評点し、双方の評点の合計が八〇〇点以上のものを「合」と右の点の未満のものを「否」と判定するものとされ、更に、申請原稿本に対する合格又は不合格の総合判定は、基本条件の三項目及び必要条件のいずれもが「合」と判定されたものを合格と判定するほか、原稿本に更に訂正、削除又は追加などの措置をしなければ教科用図書として不適切であると認められる事項がある場合は、これを「修正意見」として指摘し、原稿本に必要な修正を加えることを合格の条件とすることができるものとされている。また、修正意見として指摘するには至らないが、訂正、削除又は追加などの措置をした方が教科用図書としてよりよくなると認められる事項がある場合は、これを「改善意見」として指摘するか、これは、修正するかどうかを最終的には申請者の意思に委ねるものであり、改善意見に従った修正をしなくても検定不合格となることはないとされるが、検定実務上、改善意見に従った修正を拒否する場合には、拒否理由書の提出が求められている。

なお、証人木谷雅人の証言によると、従前、検定実務においては、修正意見に当たるものをA意見、改善意見に当たるものをB意見と呼び、B意見の中に、評定記号の決定に当たり減点の対象とされるいわゆる「欠陥B」と、減点の対象とはされないが修正した方がよりよくなるいわゆる「ベターB」との区別がされていたが、本件検定当時には、改善意見についてかかる区別はされていなかったこと、但し、改善意見が相当箇所にわたる場合には、評定記号の決定に当たりこれを斟酌し、評定記号を一段階下のものとする場合もあることが認められる。

(4)  文部大臣への答申と文部大臣の決定

証人木谷雅人の証言及び弁論の全趣旨によると、審議会の審議結果は、申請原稿本の合格・不合格の判定及び修正意見の指摘をして、文部大臣に対し答申されること、文部大臣は、審議会の答申に基づき、原稿本審査合格(原稿本審査合格の条件として修正意見を付したものを含む。)又は検定審査不合格の決定を行い、その旨を申請者に通知する(検定規則九条一項)が、この場合、文部大臣は、審議会の意見を尊重し、その答申どおり合格(合格の条件として修正意見を付したものを含む。)又は不合格の決定をするのが通例であることが認められる。

なお、新規検定の申請にかかる教科用図書原稿について、検定審査不合格の決定の通知を受けた申請者は、その原稿に必要な修正を加えた上、不合格となるべき理由を通知した日の翌日から起算して原則として七五日以内に再申請することができる(検定規則一二条、実施細目一章四節第二)。

(5)  理由の告知

文部大臣が、原稿本審査合格の条件として修正意見を付する合格(以下「条件付合格」という。)又は検定申請不合格の決定を行う場合には、当該決定の理由を申請者に告知することとしており、教科書調査官がその任に当たっている。すなわち、証人木谷雅人の証言及び弁論の全趣旨によれば、教科書調査官は、申請者に対し、条件付合格の場合には、口頭をもって修正意見・改善意見の付された箇所全部につき逐一告知し、不合格の場合には、事前に不合格理由の総括的な概要及び個々の欠陥の主なものを記載した文書を交付するとともに、口頭で補足説明を行うこと、また、右の口頭告知の際、調査官の説明を正確に録取することができるように、速記、録音機などの使用が許されることが認められる。

(6)  意見申立手続

教科書検定制度においては、申請者に次のような意見申立手続を設けている。

第一に、条件付合格の通知を受けた者は、修正意見の内容に異議のある場合には、右通知のあった日の翌日から起算して一五日以内に当該修正意見に対する意見申立書を文部大臣に提出することができ、右意見申立書の提出があった場合において、文部大臣は、審議会の議を経て、申し立てられた意見を相当と認めるときは、当該修正意見を取り消すものとしている(検定規則一〇条)。

第二に、文部大臣は、検定審査不合格の決定を行おうとするときは、事前に検定審査不合格となるべき理由を申請者に通知し、右通知を受けた申請者は、通知のあった日の翌日から起算して二〇日以内に反論書を文部大臣に提出することができる。右反論書の提出があったときは、文部大臣はこれを添えて当該原稿本について、再び審議会に諮問し、その答申に基づいて原稿本審査合格(条件付合格を含む。)又は検定審査不合格の決定を行うものとしている(検定規則一一条)。

なお、検定申請不合格処分に対し行政不服審査法六条に基づく異議の申立てが許されることはいうまでもない。

(二) 内閲本審査(検定規則一三条、実施細目一章三節第二)

条件付合格の通知を受けた者は、内閲本審査願書とともに原稿本に修正意見に従った修正を加えた内閲本を文部大臣に提出する。内閲本では、修正意見ないし改善意見に従った修正のほか、誤記、誤植、脱字又は誤った事実の記載を発見したときの修正、客観的事情の変更に伴い、明白に誤りとなった事実の記載を発見したときの修正、表記の統一を行う修正等の場合に自己修正を加えることができるとされている。なお、前記(一)(6)の修正意見に対する意見の申立てが行われている場合には、とりあえず、その箇所に「意見申立中」と赤色で付記して内閲本を提出することができ、申し立てられた意見を相当と認めない旨の通知があったときに、その時点で修正意見に従った修正を行うものとされ、意見申立てをしても内閲本審査手続には支障がないように配慮されている。また、証人木谷雅人の証言及び弁論の全趣旨によれば、改善意見に従った修正を行わない場合には、修正を拒否する理由について記載した書面を提出することを求めるのが通例であること、内閲本審査は、右の内閲本について主として教科書の内容につき再審査を行うものであって、審査に当たっては、申請者の意見申立てを検討して修正意見を取り消す場合や、修正された箇所につき適切でないと認めて再考を促すこともあること、また、申請者の行った修正が審議会の意見に従ったものであると認められるか否かの判断については教科書調査官がその任に当たるのが通例であるが、審議会が申請者の行った修正内容の当否について再審査することもあることが認められる。

(三) 見本本審査(検定規則一四条、実施細目一章三節第三)

見本本審査は、教科書検定の最終段階部分であって、申請者に実際の教科書と同一の造本を施したものを提出させ、内容はもとより表紙、奥付、印刷、造本等全般にわたって教科用図書として必要な要件を備え完成されたかどうかについて審査を行うものである。

(四) 審査期間

検定関係法令中には、検定のいずれの段階の審査についても一定の期間内にこれを終了すべき旨を定めた規定はない。

他方、申請者については、原稿本審査合格の条件として修正意見が付されていない場合には、四月一日から七月三一日までの間に受理した図書(以下「前期受付本」という。)については、原稿本審査合格の通知を受けた日の翌日から起算して七〇日以内に、八月一日から三月三一日までの間に受理した図書(以下「後期受付本」という。)については、原稿本審査合格の通知を受けた日の翌日から起算して六〇日以内にそれぞれ見本本を提出すべき旨、原稿本審査合格の条件として修正意見が付されている場合には、原稿本審査合格の通知を受けた日から起算して前期受付本については三〇日以内、後期受付本については原則として二〇日以内にそれぞれ内閲本を提出し、更に内閲本審査終了の通知を受けた日の翌日から起算して四〇日以内に見本本を提出すべき旨定められている(実施細目一章三節第二、第三)。

4  発行・採択

以上の三段階の審査に合格した教科用図書原稿は、検定済教科書となり、文部大臣により官報にその名称、判型、ページ数、目的とする学校及び教科の種類、検定の年月日、著作者の氏名並びに発行者の氏名及び住所が告示される(検定規則二〇条二項)。発行者は、毎年、文部大臣の指示する時期に、発行しようとする教科書の書目を文部大臣に届け出るものとし、この届出に基づき文部大臣は、教科書目録を作成して都道府県の教育委員会に送付するものとされている(「教科書の発行に関する臨時措置法」四条、六条一項)。証人木谷雅人の証言によると、右文部大臣の指示する時期は、通常その年の四月一日から一〇日間とされていること、また、発行者による右届出は、検定合格済図書についてのみならず、届出時には現に検定申請中のもので既に原稿本審査に合格しているものについても、これをすることが認められており、採択には支障がないように配慮されていることがそれぞれ認められる。

都道府県教育委員会は、右教科書目録に基づきそれぞれ教科書展示会を毎年文部大臣の指示する時期に開催する(同法五条一項)が、発行者は、同法四条による届出済みの教科書に限りその見本を出品することができる(同法六条三項)。なお、証人木谷雅人及び同小原大喜男の各証言によれば、教科書展示会は、毎年七月一日から約一〇日間開催されるのが通例であること、見本本審査合格が遅れて、右教科書展示会への出品が間に合わないと、事実上採択を受けることが不可能となることが認められる。

そして、教科書目録の検定済教科書の中から、採択権者である各教育委員会(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」二三条六号)によって使用されるべき教科書の採択が行われ、翌年度から学校で使用されることになるのである。

5  改訂検定の手続

改訂検定とは、検定済教科書の改善を図るために加えられた個々の改訂箇所について行う検定をいうが、改訂がページ数の四分の一以上にわたるものについては、新たに編修されたものとみなして、新規検定の手続によることとされていることは、前記1のとおりである。<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

改訂検定申請の場合の原稿は、新規検定の場合のように白表紙本を提出するのではなく、既存の検定済教科書をそのまま用いて、改訂を加えようとする各箇所に、改訂文、改訂を加えようとするさし絵等を記載した別紙を、新旧の区別が明らかに対照できるように貼付し、更に、書き換え、挿入、削除、移動、置き換え等記述内容にわたる改訂については「赤色」付せんを、それ以外のものについては別の色の付せんを貼付して作成することとされ、これを改訂理由書等の添付書類とともに提出して改訂検定の申請をするものとされている。

改訂検定の申請があると、まず調査官の調査に付されることは、新規検定と同様であるが、特に必要と認められる場合を除き、調査員の調査は省略することとされている。審議会は、調査官の調査の結果に基づき申請原稿本を検討し、その合否を判定するのであるが、その審査は、改訂を加える個々の箇所ごとに検定基準に照らしてその適否を判断し、合否の決定も個々の改訂箇所ごとに行うこととされている。

以上のほかは、新規検定の手続及び運営とほぼ同様である。

6  正誤訂正手続

正誤訂正手続は、検定済教科書の記述について、訂正を要するものがあるときに、これを行うための手続として、昭和五二年の検定規則の改正(同年文部省令第三二号)により設けられたものである。すなわち、検定済教科書について、(一)誤記、誤植、脱字又は誤った事実の記載があることを発見したとき、(二) 客観的事情の変更に伴い、明白に誤りとなった事実の記載があることを発見したとき、(三) 統計資料の更新を必要とするとき又は(四) その他学習を進める上に支障となる記載で緊急に訂正を要するものがあることを発見したときのいずれかに該当する場合には、発行者は、文部大臣の承認を受け、必要な訂正を行わなければならないとされている(検定規則一六条)。証人木谷雅人の証言によれば、正誤訂正手続は、検定手続と異なり、審議会の議を経ないで文部大臣の判断により、教科書の記述の変更を承認するものであって、正誤訂正の事由に該当するか否かの判断については、教科書調査官がその任に当たっていることが認められる。

第三本件各検定の経過

一昭和五五年度検定について

1  昭和五五度検定の経緯につき、次の事実は、当事者間に争いがない。

三省堂が、昭和五五年九月五日付で文部大臣に対し、原告の執筆に係る「新日本史」原稿について従前の教科書の全面改訂を内容とする新規検定の申請を行ったところ、これに対し、文部大臣は、翌年一月二六日付で合計約四二〇項目にわたる修正意見又は改善意見を付した条件付合格の決定をし、同年二月三日前後の二日間にわたり、教科書調査官から、合計約一一時間をかけて、右修正意見及び改善意見が伝達された。

三省堂は、同月一八日、修正意見を付されたもののうち二箇所について、「修正意見に対する意見申立書」(甲第五号証)を提出して、意見の申立てをしたところ、文部大臣は、同年三月六日、そのうち一箇所については意見申立てを認め、一箇所についてはこれを認めないとの決定をし、その旨を三省堂に通知した(甲第六号証)。

三省堂は、同年三月九日付で文部大臣に対し、内閲本審査願書と内閲本を提出し、その際、一部の改善意見について修正に応じ難いとする拒否理由書(甲第八号証)を提出した。内閲本提出後、内閲本審査が行われ、数次にわたって教科書調査官と三省堂編集者ないし原告との間で意見の伝達・聴取が行われ、同年五月一六日、内閲本審査合格となった。その間、三省堂は、同年四月一四日に再度改善意見に対する拒否理由書(甲第九号証)を提出し、同月二〇日にも同様の書面(甲第一〇号証)を提出した。

その後、三省堂は見本本を提出し、同年七月八日、見本本審査合格となった。

2  右の争いのない事実と<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 原稿本審査

三省堂から検定申請された原稿本(甲第一号証)は、直ちに社会科担当の教科書調査官及び三名の調査員の調査に付されたが、右調査の主査は時野谷滋主任調査官で、副査は森茂暁調査官であった。文部大臣は、昭和五五年一〇月一六日、右原稿本について、教科用図書として適切であるかどうかを審議会に諮問した。

同年一二月下旬までに、右各調査員からそれぞれ調査評定結果の回答があったが、その評定点数は、それぞれ創意工夫点を加え九五〇点、八六四点及び八六八点で、その評定結果は、三名とも合格であった。また、昭和五六年一月上旬ころ、日本史関係の調査官会議が、次いで社会科担当調査官全体の会議がそれぞれ開催され、社会科担当の全調査官の検討の結果、約四〇〇項目にわたる欠陥が指摘されたが、評定点数は、創意工夫点を加え八一六点となり、条件付合格が相当とされた。

同月一九日、日本史小委員会が開催され(総員四名、出席者四名)、調査員及び調査官の各調査意見書及び各評定書が提出されるとともに、主査である時野谷主任調査官からこれらの説明が行われ、審議の結果、条件付合格が相当とされた。更に、同月二二日、第二部会(社会科)が開催され(総員一八名、出席者一三名)、日本史小委員会の委員長小島鉦作から同委員会の審議結果が報告され、同部会における審議の結果、修正意見及び改善意見相当のもの合計約四二〇項目の欠陥が指摘されたが、評定点数は、創意工夫点を加え八四六点となり、条件付合格と判定された。

そして、同日、本件原稿本につき審議会会長名取禮二から文部大臣に対し、右修正意見を付し条件付合格と判定する旨の答申がされ、これに基づき文部大臣は、同月二六日、右答申どおり条件付合格の決定をし、同年二月三日、文部省において、時野谷調査官を通じて、条件付合格決定通知書(甲第三号証)が三省堂従業員に交付された。

右通知書の交付に引き続き、同日及び翌四日の二日間にわたり、時野谷調査官及び森調査官から、原告、三省堂従業員の小原大喜男及び近藤登彦並びに編集協力者の青木美智男及び吉田夏生に対し、修正意見及び改善意見の付された箇所及び理由を原稿本に転記したものに基づいて、口頭をもって右合格条件等が告知された。右告知については、これを録音機により録音することが認められた。これに先立ち、原告は、同年一月三〇日、三省堂を通じて、文部大臣に対し、意見の付された箇所等の口頭告知に代えて、検定処分にかかわる文書のコピーを求める申入れ(甲第四号証)をしたが、これは受け入れられなかった。なお、右条件等の告知においては、教科書調査官の告知に不明確な点があるときは、適宜、その場において、原告、三省堂従業員又は編集協力者から質問等によりその趣旨を確認することができたし、後日、電話又は教科書調査官との面接を通じて確認することもできた。

(二) 内閲本審査

昭和五五年度検定における内閲本提出期限は、昭和五六年二月二三日とされていたが、修正指示が多数に及んだため、三省堂において十分に対応することができなかったこともあって、同月二一日、三省堂から右期限を三月七日まで延期するよう求める内閲本提出延期願が提出された。

同月九日に内閲本が提出された後、教科書調査官と三省堂従業員との間で、同年三月二三日から二五日までの三日間にわたり、いわゆる内閲調整と呼ばれる内閲本の修正を巡る折衝が行われた(なお、内閲本審査段階での教科書調査官の指示又は意見については録音が認められておらず、三省堂従業員は、筆記によって録取している。)。右内閲調整において、文部大臣の修正指示に沿った修正がいまだなされていないことを理由として教科書調査官から再度の修正指示がなされたが、その数が多かったため、三省堂は、その対応に手間取り、同年四月一四日に至り、文部大臣に対し、再度修正を加えた内閲本を提出した。この間、教科書調査官は、三省堂従業員に対し、内閲本の提出を幾度か電話で催促した。原告は、同日、三省堂従業員を通じて、重ねての修正要求を拒否する理由書(甲第九号証)を、更に同月二〇日にも、同様の書面(甲第一〇号証)をそれぞれ提出したが、右各理由書の冒頭には、「改善意見は検定に関する法令規則によれば、修正しなくても検定手続きを完了する上になんらさしつかえないはずです。改善意見の理解にくいちがいがあったとすれば、そのかぎりでは著者として再検討を加えますが、学問的、教育的配慮の当否にわたるものにあっては、結局は見解の相違というほかなく、そのような論争に応ずる法律上の義務は存しないはずですから、その類の事項について、これ以上修正を求めて手続きを遅滞させることは職権乱用のきらいなしとしません。」旨記載されている。その後、同月二〇日及び二一日の二日間にわたり、教科書調査官と三省堂従業員との間で、同月二七日には教科書調査官と原告との間で、右拒否理由書を巡り折衝が行われた。更に、同月三〇日、同年五月四日及び六日に教科書調査官と三省堂従業員との間で折衝が行われ、実質的にはこの頃までに内閲本審査は終了した。同月一二日及び一三日に教科書調査官と三省堂従業員との間で最後の微調整が行われ、同月一六日に内閲本審査合格との間で最後の微調整が行われ、同月一六日に内閲本審査合格となった。(なお、以上の内閲本審査の各期日は、教科書調査官と三省堂従業員との間で取り決めたもので、教科書調査官の方で一方的に指定したものではなかった。)

(三) 見本本審査

見本本提出期限は、同年六月二五日とされていたが、修正意見ないし改善意見に応じた修正箇所が多数に及んだため、三省堂は、同月二四日、右提出期限を同年七月三日まで延期するよう求める見本本提出延期願を提出した。同年七月三日に見本本が提出され、同月八日に見本本審査合格となったが、同年の教科書展示会は、例年に比較して一〇日遅れて開催されたため、教科書展示会に見本本の提出が間に合わない事態には至らなかった。

二昭和五七年度正誤訂正申立てについて

1  昭和五七年度正誤訂正申立ての経緯につき、次の事実は、当事者間に争いがない。

三省堂従業員は、昭和五七年一二月二日、昭和五五年度検定済「新日本史」について、二七六頁脚注4の記述を「中国軍の激しい抵抗にもかかわらず、ついに南京を占領した日本軍は、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる。」と訂正すること等の正誤訂正の承認を求める正誤訂正申請書(甲第一三号証。以下「本件正誤訂正申請書」という。)を文部省に持参したが、文部大臣は、これを受理するに至らなかった。

2  右の争いのない事実と<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

三省堂出版局長久司高朗及び社会科教科書出版部次長渡辺孝映は、昭和五七年一二月二日、本件正誤訂正申請書とともに、別の教科書である「三省堂日本史」及び「高校世界史」についての正誤訂正申請書をも文部省に持参し、検定課検定調査第一係長岸継明に対し、右各正誤訂正申請書の提出を申し出た。しかし、右「三省堂日本史」及び「高校世界史」についての正誤訂正申請書中には「進出」を「侵略」に改めるものが含まれていたため、岸は、久司らに対し、正誤訂正制度の目的、さきに第一、三2(三)において認定した文部大臣の談話、国会答弁の趣旨等に照らし、右申請書が正誤訂正の要件を具備していない旨を説明するとともに、本件正誤訂正申請書中の南京大虐殺に関する部分についても、同様に正誤訂正の要件を充たさない旨説明し、右部分の申請の再考を示唆した。

そこで、久司らは、それ以上右各申請書の受理を求めることなくこれを持ち帰り、本件正誤訂正申請書については、南京大虐殺に関する正誤訂正申請部分を削除した上、同月九日、再度正誤訂正申請書を提出したところ、文部大臣は、これを受理し、右申請書に沿った正誤訂正を承認したが、原告ないし三省堂は、その後、右南京大虐殺に関する部分について再度正誤訂正申請をしなかった。

3 原告は、岸が正誤訂正申請の受理を拒否したと主張し、証人小原大喜男の証言中には、右主張に沿う証言部分があるが、正誤訂正事由の有無の実質的な審査は教科書調査官が行っていることは、前記第二、五6の認定のとおりであり、また、小原が右申請に当たったものではないことは、前記2認定のとおりであって、右証言部分は小原の伝聞を述べるにすぎないものであるところ、証人岸継明の証言中には、岸は、久司らに対し、南京大虐殺に関する記述部分の正誤訂正の申請の再考を促したものであり、教科書調査官の調査に付することを要請されたにもかかわらず申請の受理を拒否したことはない旨の証言部分があるのであって、これに照らし、証人小原大喜男の右証言部分は採用することができず、他に岸が正誤訂正申請の受理を拒否したことを認めるに足りる証拠はない。

三昭和五八年度検定について

1  昭和五八年度検定の経緯につき、次の事実は、当事者間に争いがない。

三省堂は、昭和五八年九月八日に、文部大臣に対し、昭和五五年度申請に係る検定済教科書「新日本史」(後掲甲第一四号証)の記述中八四箇所について改訂を加える改訂検定の申請を行ったところ、文部大臣は、同年一二月二一日付で右八四箇所のうち六〇箇所について合格とし、他の二四箇所に条件を付し、合わせて約七〇項目にわたる修正意見又は改善意見を付した上で条件付合格とする決定をし(後掲甲第一六号証)、同月二七日に、教科書調査官から、合計約三時間をかけて、右修正意見及び改善意見が伝達された。

三省堂は、昭和五九年一月一七日、修正意見を付されたもののうち本件提訴に係る記述箇所(沖縄戦を除く)四箇所(同趣旨の二箇所を含む。)を含む八箇所について「修正意見に対する意見申立書」(後掲甲第一八号証)を提出したところ、文部大臣は、同年二月一日、八箇所のうち二箇所(シンガポールでの非戦闘員の処刑、フィリピンでの住民虐殺の各記述部分)については意見申立てを認め、本件提訴に係る記述四箇所を含む六箇所についての意見申立ては認めないとの決定(後掲甲第二一号証)をした。

三省堂は、同年一月二四日付で文部大臣に対し内閲本審査願書(後掲甲第一九号証)と内閲本を提出し、その後、同年二月一〇日、同月一七日、同月二九日、同年三月五日及び同月九日の五回にわたり教科書調査官と三省堂従業員ないし原告との間で意見の伝達・聴取が行われ、同年四月一三日、内閲本審査合格となった。

その後三省堂は、同年五月一六日に見本本を提出し、同月二四日、見本本審査合格となった。

2  争いのない事実と<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 原稿本審査

三省堂から検定申請された原稿本(甲第一四号証)は、直ちに社会科担当の教科書調査官の調査に付されたが、右調査の主査は時野谷滋主任調査官で、副査は照沼康孝調査官であった。文部大臣は、昭和五八年一〇月一八日、右原稿本について、教科用図書として適切であるかどうかを審議会に諮問した。

同年一一月下旬ころ、日本史関係の調査官会議が、次いで社会科担当調査官全体の会議がそれぞれ開催され、社会科担当の全調査官による検討の結果、申請のあった八四箇所のうち二四箇所については修正意見を付して条件付合格とし、六〇箇所については合格とするのが相当であるとされた。同年一二月一三日、第二部会(社会科)が開催され(総員一九名、出席者一五名)、調査官の調査意見書及び評定書が提出されるとともに、主査である時野谷主任調査官から説明が行われ、審議の結果、前記の調査官の会議と同旨の結論が相当であると判定された。

そして、同日、本件原稿本につき、審議会会長名取禮二から文部大臣に対し、同旨の答申がされ、これに基づき文部大臣は、同月二一日、右答申どおりの決定をし、同月二七日、文部省において、時野谷調査官を通じて、合格及び条件付合格決定通知書(甲第一六号証)が三省堂従業員に交付された。

右決定通知書の交付に引き続き、時野谷調査官及び照沼調査官から、原告、三省堂従業員の小原大喜男及び武内朗、編集協力者の青木美智男及び吉田夏生に対し、修正意見及び改善意見の付された箇所及び理由を原稿本に転記したものに基づいて、口頭をもって右合格条件等が告知された。

(二) 内閲本審査

内閲本提出期限は、昭和五九年一月二二日とされていたが、同月二三日、三省堂から右期限を同月二六日まで延期するよう求める申出がされた。

三省堂は、同月二四日に内閲本を提出したが、原告は、同日、文部大臣に対し、改善意見に対する拒否理由書(甲第二〇号証)を提出した。そして、同年四月一三日に内閲本審査合格となった。

第四教科書検定制度の違憲違法性

一教育の自由・自主性違反の主張について

1  教育の自由・自主性違反に関する原告の主張の要旨は、次のとおりである。

憲法一三条、二三条、二六条及び教育基本法一〇条の各規定により、教育という営みに関与する国民の行為が公権力により妨げられないという教育の自由が国民に保障されており、このような教育の自由は、具体的には、子どもの学習の自由、親の家庭教育・学校選択の自由、教師の教育の自由、国民の私立学校設置の自由及び国民の教科書等の教材の作成・発行の自由等として現われる。その結果、国の公教育への関与には、憲法及びその趣旨を具体化する教育の根本法たる教育基本法によって限界が存在することが承認されなければならず、国は、教育の外的条件の整備と指導助言に努めるのが本則であって、教育に対する国家の権力的介入は、学校教育の法制度化に伴って必要とされる最小限度の国家的画一化ないし規制にとどめられるべきであり、具体的には、学校制度的基準として法定されている学校体系、学校種別、修業年度、学年及び学期、教員資格、学校環境基準、学校設置基準などの事項や入学・卒業資格、各段階の学校の教育の目的・目標、教科・科目の種類・名称、単位数、教育課程の構成要素、標準授業時数などの事項に限られると解すべきであって、大綱的基準を超えて教育の内容・方法に介入することは許されない。これを教科書検定についてみれば、その審査の範囲は、(一)誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤り、(二)造本その他教科書についての技術的な事項及び(三)教科書のごく大まかな構成・全体としての分量等個々の記述内容の当否とは直接かかわらない事項にとどめられるべきであって、それ以外は指導助言の方法によるべく、右の限度を超えて教科書の記述内容の当否に及ぶ審査は、憲法及び教育基本法一〇条等によって保障される教育の自由を侵害するものとして許されない。

しかるに、現行教科書検定制度の唯一の法律上の根拠とされる学校教育法二一条にいう「検定」の語義については法律上なんらの定義規定も存在しないところ、同法条に定められた「検定」なる概念が教科書の内容に関する包括的かつ権力的な審査を本来の目的とするものであるならば、同条(同法五一条により高等学校に準用)は、教育の自由を侵害するものとして憲法二六条、二一条及び二三条に違反するものである。

仮に、学校教育法二一条が合憲であるとしても、同条を受けて制定された検定規則は、文部大臣が申請原稿本に対し不合格処分又は修正意見を付した条件付合格処分をすることができることを規定しており(九条)、教科書の内容に関する包括的かつ権力的な審査を前提とするものであるから、前記(一)ないし(三)の限度を超えた教育内容への介入を予定しているものとして、規則全体が違憲であるとともに、教育基本法一〇条にも違反するというべきである。更に、検定規則が合憲であるとしても、その下位に属する検定基準は、多岐にわたり過度に広範であり、学習指導要領との厳格な一致を求めている点において、これによる著作者に対する規制の程度が必要最小限度の枠を超えているというべきであり、また、個々の内容が極めて抽象的で基準が不明確な点において、教育的配慮はもとより学問的見解にかかわる領域に至るまで権力的な審査を可能にしているというべきであって、同基準は、教育の自由を侵害するものとして違憲であるとともに、教育基本法一〇条に違反するものである。

仮に、学校制度的基準を超えた教育内容への国の介入が許されるとしても、教育の自由が精神的自由権の一つであることから、当該介入を根拠付ける法令について表現の自由の場合と同様の「厳格な審査」基準による違憲審査が行われるべきであって、まず、教科書検定制度の目的において、著作者の教育の自由を制限してもやむをえないほどの必要性が存在することが立証されなければならず、また、現行制度のような手段が必要最小限度のものであるかが審査されなければならないのである。更に、教育の自由においては、表現の自由の場合より緩やかな審査によることが可能であって、「厳格な審査」基準が適用されないとしても、少なくとも「厳格な合理性の基準」に基づく審査が行われるべきであって、まず、教科書検定の規制目的が重要な公共の利益のために「必要かつ合理的な」ものであるか否かについて検討されなければならず、更に、これが右の「必要かつ合理的な」目的であるとしても、その規制手段が事後規制(教科書として出版されたものについて推薦あるいは認定をする規制手段)のようなより緩やかな規制によっては右の目的を達成することができないという実情があるか否かが審査されなければならないのである。

2  子どもの公教育と国家の関与

子どもの公教育における教育内容及び教育方法の決定につき国家が関与し得るか否か、国家が関与し得るとすればどの程度関与し得るか並びにこれらにかかわる憲法及び教育基本法の解釈については、最高裁昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁の判示するところであるので、以下右判例の判示を基にしつつ、これをふえんして説示することとする(なお、右判例を引用する部分は、以下括弧を付することとする。)。

「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。」子どもに対する教育の目的は、単に人類が到達した文化的成果を次代の担い手である子どもに伝達するにとどままらず、右のとおり、一人一人の子どもの潜在的な能力を十分に開発し、個別的で多様な発達をしていく子どもの成長をその個性に応じて促していくことにある。

「この子どもの教育は、その最も始原的かつ基本的な形態としては、親が子との自然的関係に基づいて子に対して行う養育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもってしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公共的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては、子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれるという状態になっている。

ところで、右のような公教育制度の発展に伴って、教育全般に対する国家の関心が高まり、教育に対する国家の支配ないし介入が増大するに至った一方、教育の本質ないしはそのあり方に対する反省も深化し、その結果、子どもの教育は誰が支配し、決定すべきかという問題との関連において、上記のような子どもの教育に対する国家の支配ないし介入の当否及びその限界が極めて重要な問題として浮かびあがるようになった。このことは、世界的な現象であり、これに対する解決も、国によってそれぞれ異なるが、わが国においても」、戦前の我が国の教育が国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があったことに対する反省から、右の問題は、「戦後の教育改革における基本的問題の一つとしてとりあげられたところである。」

そこで、まず、我が国において憲法以下の教育関係法制が右の基本的問題に対していかなる態度をとっているかという全体的観察を行うこととする。

3  憲法と子どもに対する教育権能

(一) 「憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、『すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。』と定め、二項において、『すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。』と定めている。この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、」右の規定からは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべきか、また、決定することができるかという問題、すなわち、子どもに与えるべき教育の内容等は、国の一般的な政治的意思決定手続によって決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかという問題に対する一定の結論は、直接一義的には、導き出されない。しかしながら、「この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。」このことは、憲法以下の教育関係法制の解釈・運用に当たっても、中心に据えられるべき点である。

(二) 「思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によって大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。」それ故、子どもが自ら教育を受ける権利ないしは学習をする権利を十全に実現できないものである以上、「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであって、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。」

前記のとおり、憲法の規定中にこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準が明示されていない以上、「憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよって立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈というべきである。」

(三) 「この観点に立って考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられる」。

(四) 次に、「私学教育における自由や」学校において現実に子どもの教育の任に当たる「教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であ」り、とりわけ教師のそれは一般的でその影響するところも大きいが、これらの者が公権力による支配、介入を全く受けないで、完全に自由に子どもの教育内容を決定することができるとも解し得ない。

「確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、」教師の専門的知識、経験が重要な役割を果たすのであって、その職務の遂行に当たり教師の専門的判断が尊重されなければならないことは当然の事理であり、また、「子どもの教育が教師と子どもの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならない」し、「例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、」「一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えている」ことを前提にすることが可能であるのに対し、高等学校以下の普通教育においては、児童生徒にこのような能力がないか又は不十分であることを前提とせざるを得ないため、一般的には「教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有する」といわざるを得ないこと、「また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、」子どもが授業への出席・退席の自由もない、いわば<囚われの聴衆>の立場に置かれていること、「教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等」の普通教育の本質と特殊性を考慮すると、「普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、」許されないのである。

(五) 更に、教科書の著作者(編集者を含む。以下同じ。)についてみても、教科書著作者が憲法二三条により学問の自由を保障され、自らの学問研究の成果を発表する自由を有すること、教科書が学問研究の成果に基づいて作成されなければならないこと、また、かかる教科書が普通教育においてその使用が義務付けられていることからすると、教科書著作者は、各教科内容に関する専門的知識等を有し、子どもの学習する権利の充足を図り得る立場にある者として(教科書発行者も、学習権の充足を図り得る点では同様の立場にあるといえる。)、教師とは異なる形で(教師のような資格要件を必要とされないし、子どもとの直接の人格的接触も存しない。)教育にかかわりを持ち、前示判例のいう「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」に含まれ、教育内容につき発言権を有する者であることは、否定し難い。

しかしながら、教科書は、普通教育における主たる教材としての使用を目的とするものであって、学問的、学術的研究発表の場を提供するためのものでないことは、さきに第二、一3に判示したとおりであり、後記三2に判示するような普通教育の本質と特殊性に照らし、教科書著作者に教科書という形で自己の研究成果をそのまま発表する自由が存することを肯認することはできないことは、後に三2において詳論するとおりである。

(六) 最後に、「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」として、国家が考えられるところ、民主主義政治体制を採る我が国のような国家が、国民に対する公教育につき憲法二六条が規定するような責務を負担するのは、国会を通じて表明された国民の意思に基づくものであり、国政の一部として国民の信託を受けた結果であるというべきであるが、「一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、」前記(三)ないし(五)にみたような親、教師等の一定の範囲の教育の自由の領域を除くそれ以外の領域においては、「憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせない」。

もっとも、「政党政治の下で多数決原理によってされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によって左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、」「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されない」というべきである。

4  教育基本法一〇条の解釈

(一) 教育基本法は、「憲法において教育のあり方の基本を定めることに代えて、わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであって、戦後のわが国の政治、社会、文化の各方面における諸改革中最も重要な問題の一つとされていた教育の根本的改革を目途として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律であり、このことは、同法の前文の文言及び各規定の内容に徴しても、明らかである。それ故、同法における定めは、形式的には通常の法律規定として、これと矛盾する他の法律規定を無効にする効力をもつものではないけれども、一般に教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教基法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払わなければならないというべきである。」

また、教育基本法は、「その前文の示すように、憲法の精神にのっとり、民主的で文化的な国家を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献するためには、教育が根本的重要性を有するとの認識の下に、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的で、しかも個性豊かな文化の創造をめざす教育が今後におけるわが国の教育の基本理念であるとしている。これは、戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があったことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたっても、強く念頭に置かれるべきものである」。

(二) 教育基本法一〇条一項は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と定めているが、この文言からも明らかなように、同項は、「教育が国民から信託されたものであり、したがって教育は、右の信託にこたえて国民全体に対して直接責任を負うように行われるべく、その間において不当な支配によってゆがめられることがあってはならないとして、教育が専ら教育本来の目的に従って行われるべきことを示したものと考えられる。これによってみれば、同条項が排斥しているのは、教育が国民の信託にこたえて右の意味において自主的に行われることをゆがめるような『不当な支配』であって、」そのような支配と認められる限り、「教育行政機関が行う行政でも、右にいう『不当な支配』にあたる場合がありうること」は否定し得ない。また、前述のように、「他の教育関係法律は、教基法の規定及び同法の趣旨、目的に反しないように解釈されなければならないのであるから、教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法一〇条一項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない拘束を受けている」ものというべきである。

(三) 次に、教育基本法一〇条二項は、一項を受けて、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と定めている。そこで、ここにいう「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」とは、原告主張のように、主として教育施設の設置管理、教員配置等のいわゆる教育の外的事項に関するものを指し、教育課程、教育方法等のいわゆる内的事項については、教育行政機関の権限は原則としてごく大綱的な基準の設定に限られ、その余は指導、助言的作用にとどめられるべきものかどうかについて考察する。

さきに3(六)においても述べたとおり、「憲法上、国は、適切な教育政策を樹立、実施する権能を有し、国会は、国の立法機関として、教育の内容及び方法についても、法律により、直接に又は行政機関に授権して必要かつ合理的な規制を施す権限を有するのみならず、子どもの利益のため又は子どもの成長に対する社会公共の利益のためにそのような規制を施すことが要請される場合もありうるのであり、国会が教基法においてこのような権限の行使を」原告主張のように「自己限定したものと解すべき根拠はない。むしろ教基法一〇条は、国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたっては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する『不当な支配』となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法」、すなわちいわゆる内的事項「に関するものであっても、必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが、相当である。」このことは、小・中学校教育にとどまらず、普通教育に属するものでないとはいえ、普通教育の一環として小・中学校教育と共通の基盤に立ち、その延長線上にあり、教育の機会均等を確保する上から全国的に一定の水準を維持すべきことが要請される点で、高等学校教育についても同様であって、公権力の不当、不要の介入が排除されるべきは当然であるが、国が、高等学校教育の特質等を配慮しつつ、許容される目的のため必要かつ合理的と認められる関与ないし介入をすることは、それがたとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、是認されるものといわなければならない(最高裁昭和五一年(あ)第一一四〇号同五四年一〇月九日第三小法廷判決・刑集三三巻六号五〇三頁参照)。

5  教科書検定制度と教育の自由ないし教育基本法一〇条

そこで、次に、以上の解釈に基づき、教科書検定制度が、子どもの学習をする権利ないし親、教師等の有する教育の自由を侵害するものとして憲法に違反するか否か、また、教育基本法一〇条にいう教育に対する「不当な支配」として右規定に違反するか否かを検討する。

(一)  現行の教科書検定制度においては、検定処分は、文部大臣が新規に著作された図書(検定済教科書を改訂する場合の図書も含む。)又は既に発行ずみの特定の図書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において、教科書として使用し得る法律上の資格を設定するか否かを審査決定する行政処分であると解されることは、後に第六、二1において判示するとおりであり、その審査がさきに第二、四及び五において認定した検定基準及び検定手続によって行われるものである以上、審査の内容が、誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤り等個々の記述内容の当否と直接かかわらない事項にとどまらず、それを超えてその記述内容にまで及ぶことのあり得ることは、認めなければならないところである。そして、学校教育法二一条一項にいう「検定」の語義についてこれを明らかにした規定は存しないものの、それが右のような審査を前提とするものであることは、文言及び検定制度の沿革からみて明らかというべきである。

(二)  しかしながら、文部大臣が教科書検定を行うことを定めた学校教育法二一条の規定自体は、憲法二六条に違反するものではないというべきである。思うに、許容される目的のために必要かつ相当と認められる範囲においては、教育の内容及び方法に関するものであっても、国がこれに関与し、決定することが許されることは、前記3(六)のとおりであるところ、教科書については、その内容について一定の水準が保たれる必要があること、内容の正確性、立場の中立・公正が要求されること、子どもの発達段階に応じた理解能力に合わせて、教科の系統的組織的な学習に適するように、各教科課程の構成に応じた内容の選択及び組織配列が求められるなど教育的配慮が必要であることは、さきに第二、一において判示したとおりであって、教科書検定は、教科書について、その内容における一定の水準、正確性及び中立・公正並びに右の教育的配慮の確保を図ることによって、子どもの学習する権利の充足に寄与するという、まさに許容される目的をもって、しかも、右目的のために必要かつ相当と認められる範囲でなされるべきものであるからである。もっとも、学校教育法二一条の規定上はもとより、他にも同法中に教科書検定制度の目的を明らかにした規定は存しないけれども、我が国における検定制度自体の長年にわたる沿革、実績等からして、学校教育法二一条所定の教科書検定制度の目的が右の点にあることが自明であることは、後に四2において判示するとおりである。

また、教科書は、当該教科に関する学問研究の成果を反映し、教育学の研究成果を踏まえた教育的配慮をもって記述しなければならないとしても、教科書著作者に教科書執筆の完全な自由が認められるとは解し得ないことはさきに3(五)において判示したとおりであり、教科書検定が、右のとおり許容される目的をもって、しかも、右目的のため必要かつ相当と認められる範囲において実施される限り、後記三のとおり、教科書著作者の執筆の自由を侵害するものではないというべきである。

更に、教科書は、主たる教材であって、学校においてその授業に使用する教材のなかで、中心的役割を果たすべきものであることは、さきに第二、一1において判示したとおりであって、教師の教授活動ないし教育に対して教科書が及ぼす影響には少なからざるものがあるというべきであるが、他方、教科書は、あくまでも普通教育における一教材にとどまり、子どもの学習をする権利を十全ならしめるため、むしろ教師が他の補助教材等をも活用することが望まれるのであって、教科書検定制度を設けることによって、なんら教師の有する教授の具体的内容及び方法についての裁量が否定されることはないし、特定の見解を教授することを強制することになるものでもないことはいうまでもなく、教科書検定制度は、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地を認めているのである。ちなみに、この点、<証拠>及び証人渡辺賢二の証言によれば、同人は、教科書の記述にかかわらず、さまざまな補助教材を使用することによって教科書のみによっては得られない歴史的事実を詳しく教授していることが認められるのであり、このことからしても教科書検定制度が、前記3(四)において判示した教師の教育の自由を侵害するものではないことは明らかというべきである。

もとより、教科書検定制度の運営いかんによっては、教育内容における一定の水準の保持を強調する余り、教育内容の過度の画一化をもたらし、子どもの多様で個性的な発育を阻害する危険があることは否めないが、むしろこのような教科書検定の運用の在り方は、必要かつ相当な範囲を超えた教育に対する行政権力の介入として憲法及び教育基本法一〇条の規定上からも許されないと解すべきであり、また、教科書検定制度の中で、直接的ないしは間接的に、教科書を誤った知識や一方的な観念に基づいて記述することを強制するような運用の余地もなくはないが、このようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるのであって、これらのことは、許容される目的のための必要かつ相当な範囲における教科書検定制度自体を否定する理由となるものではないことはいうまでもない。

してみると、教科書検定制度を設けることを規定した学校教育法二一条の規定自体が、教育の自由を侵害するものとして、憲法二六条等に違反するものということはできない。

(三)  次いで、教科用図書検定規則についてみると、同規則は、文部大臣が検定審査不合格の決定をすることができることないし原稿本審査合格の条件として修正意見を付することができることを規定し、現行教科書検定制度が指導助言の域を超える規制を行う場合があることを明らかにしているものの、国が許容される目的のために必要かつ相当と認められる範囲内で教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解し得ることは前示のとおりである以上、かかる規制自体が憲法二六条ないし教育基本法一〇条に違反するものではなく、その他同規則が右範囲を超えるものとは解することはできないから、同規則が憲法二六条ないし教育基本法一〇条に違反するものとはいえない。

(四)  また、教科用図書検定基準についてみると、そこには教科書原稿の審査の基準として、誤記、誤植といった客観的に明らかな誤りについての事項にとどまらず、教科書原稿の個々の記述内容の当否と直接かかわる事項についても規定がされており、その内容においてやや多岐にわたる点がないではないが、なお、教科書の内容における一定の水準を維持し、正確性及び立場の中立・公正を確保するとともに、子どもの発達段階に応じた内容の選択及び組織配列を行うなど教育的配慮を図るという教科書検定制度の目的にとって必要かつ相当な範囲を超えるにまで至っているとは解されないから、同基準が憲法二六条ないし教育基本法一〇条に違反するものということもできない。なお、検定基準の個々の内容が抽象的で漠然としたものであるとの点については、教育の自由・自主性よりむしろ法文の明確性の原則にかかわるところであり、この点に関する判断は、後に二4において判示するとおりである。

(五)  更に、教科用図書検定基準が、基本条件において、「(教科の目標との一致)学習指導要領に示すその教科の目標に一致していること」と、必要条件(第二節社会科のそれ)において「(範囲)教科用図書において取り扱う範囲は、学習指導要領に示す目標及び学習指導要領に示す内容によっていること」とそれぞれ規定しており、学習指導要領の定めは、検定基準の内容ともなっているのであるが、右指導要領の内容が、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方毎の特殊性を反映した個別化の余地を残していて、全体としては、なお全国的な大綱的基準としての性格を持つものと認められることは、後に四2(三)において判示するとおりであり、また、右指導要領の内容を検定基準としての観点からみても、教科書が一方的な一定の理論ないしは観念に基づいて記述されることを強制するような点を含むものではないと認められるのであって、前記教科書検定制度の目的からして必要かつ相当な範囲を超えるとまではいえないから、検定基準としての右学習指導要領の内容も、また、憲法二六条ないし教育基本法一〇条に違反するものではないと解すべきである。

(六)  なお、原告は、教育の自由が精神的自由権の一つであることから、当該介入を根拠付けている法令についての表現の自由と同様の「厳格な審査」基準による違憲審査が行われるべきであると主張するが、所論の教育の自由が、普通教育における教授の自由ないし教育の自由、教科書著作者の教科書執筆の自由を指すとしても、かかるものの完全な自由を認めることができないことは、さきに3(四)及び(五)において判示したとおりであって、所論の教育の自由と表現の自由とは同一には論じ得ないから、この点に関する原告の主張は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。また、違憲審査に関する原告のその余の主張も以上の説示及び後記二5の判示の趣旨に照らし、採用することができない。

したがって、教科書検定制度が教育の自由・自主性を侵害し、憲法二六条ないし教育基本法一〇条に違反するとの原告の主張は、採用することができない。

二憲法二一条違反の主張について

1  憲法二一条違反に関する原告の主張の要旨は、次のとおりである。

(一) 国民は、その著作・発行に係る図書を教科書として、出版し採択の場に提供することを国家権力によって妨げられないという意味での教科書出版の自由を有する。

(二) 憲法二一条二項が禁止する「検閲」について歴史的に承認されてきた要件は、①行政権がその主体であること、②表現内容の実質的審査にわたること、③発表を禁止することの三つに集約されるところ、教科書検定制度は、教科書として発表するに当たり、行政権力がその記述内容を事前に審査し、不適当と認める場合には、教科書としての発表を許容しないという意味で発表禁止の効果を伴うものであるから、検閲に該当することは明らかである。

また、最高裁判所の判例による「検閲」の定義を前提としても、現行の教科書検定制度は「検閲」に該当する。すなわち、教科書として検定申請し得る図書は、最初からそのような検定を通過できるように、検定当局から示される詳細な条件を充たすべく内容、装丁、頁数その他あらゆる点に配慮して教科書として編集し、作成するものであって、一般図書でも検定申請し得るなどということは現状を無視するものであり、教科書検定は事前審査そのものである。また、右のようにして専ら教科書として使用されるように組織され、編集された書物は、一般図書としてそのまま出版することは不可能であるし、教科書として書かれたものを一般図書として発行することは、その教科書としての著作物の本来の生命を抹殺するに等しく、まさに表現の自由の侵害にほかならない。更に、教育的見地からであっても、記述内容に立ち入り、その当否や適否を審査する制度は、思想審査以外の何ものでもない。

したがって、現行の教科書検定制度は、憲法二一条二項所定の検閲に該当し違憲である。

(三) 仮に、本件教科書検定制度が憲法二一条二項所定の検閲に該当しないとしても、右制度は、同条一項が原則的に禁止する表現行為に対する「事前抑制」に該当するものであり、しかも、①戦時のような緊急の場合、②犯罪行為が行われる明白なさし迫った危険がある場合等例外的に許容される場合に当たらないから、基準の明確性と手続の公正さが必要であるところ、検定基準は一義的に明確でなく、著者の反論の機会が実質的に十分保障されているとはいえないから、右制度は、同条項に違反する。

(四) また、現行教科書検定制度に事前抑制の原則の適用がないとしても、右制度を構成する諸法令は、その内容が全体として極めて漠然としており、かつ、多義的、包括的であって、検定権限の行使に関して、検定権者の恣意を排し、また、執筆者・発行者の過度の自己抑制を避けるに足りる程度に客観的に明確な基準をあらかじめ提示しているとはいえず、法文の明確性の原則に違反しているから、現行教科書検定制度は、憲法二一条に違反する。

(五) 更に、以上のような法文の形式審査によって直ちに違憲と判定し得ない場合であっても、その実質に立ち入り、規制の目的と規制手段の両面にわたって、厳格な審査が行われなければならないところ、いずれの観点からみても、少なくとも高等学校教科用図書について、教科書検定制度を存置しなければ重大な弊害が生ずるとのやむにやまれぬ規制目的、すなわち立法事実は、存在しないし、仮に、右立法事実があり、そのために教科書の規制を必要とする事態が存在したとしても、現行教科書検定制度に比較してより制限的でない他の選び得る規制方法は、いくらでもあるのであって、現行教科書検定制度は、表現の自由を制約する必要最小限度の方法とはいえない。したがって、現行教科書検定制度は、憲法二一条一項に違反する。

2  検閲について

(一) 憲法二一条二項前段は、「検閲は、これをしてはならない。」と規定する。憲法が、表現の自由につき、広くこれを保障する旨の一般的規定を同条一項に置きながら、別に検閲の禁止についてかような特別の規定を設けたのは、検閲がその性質上表現の自由に対する最も厳しい制約となるものであることにかんがみ、これについては、公共の福祉を理由とする例外の許容をも認めない趣旨を明らかにしたものであって、ここにいう「検閲」とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁参照)。

(二)  そこで、現行の教科書検定制度が憲法二一条二項にいう「検閲」に当たるか否かについて判断する。

教科書検定も、行政権が主体となって、思想内容等の表現物であり得る申請に係る教科用図書の原稿を対象とし、網羅的一般的にその内容を審査した上、教科書として不適当と認められるものについては教科書として発行することが許されないこととなる点において、また、その限度において右の要件を充足するものといわなければならない。

しかしながら、教科書検定によって不合格となった原稿であっても、これを一般の図書として出版することは自由であって、その発表自体が禁止されるものではないのであるから、教科書検定制度は、思想内容等の表現物の発表の禁止を目的とするものでもなく、また、その審査の結果不適当と認めるものの発表、すなわち「思想の自由市場」への登場をそもそも禁止する効果をもつものでもない。

また、検定申請の対象となる教科用図書の原稿については、必ずしも出版前のものであることを要件としておらず、弁論の全趣旨によれば、かかる原稿が既に出版されて市場にある図書であっても差し支えないとする取扱いであることが認められ、したがって、教科書検定制度は、必然的に思想内容等の表現物の発表前の審査を予定するものでもない。

前示のとおり、「検閲」とは、思想内容等の表現物の発表、すなわち「思想の自由市場」への登場自体を事前審査により禁止することをその特質とするところ、教科書検定制度は、なんら申請教科用図書原稿における思想内容等の自由市場への登場そのものを禁止するものではなく、右のような特質を有するものではないことが明らかであるから、教科書検定が特許行為に当たるか否かなどその法的性格を検討するまでもなく、教科書検定制度は、憲法二一条二項にいう「検閲」に当たらないものというべきである。

なるほど、教科用図書原稿は、教科書として出版されることを前提に著作されたもので、その一般図書としての出版は、その扱いとして、著作者らの意図したところと必ずしも合致するものではない。しかしながら、教科書は、学校教育に用いられる特殊な図書であって、心身ともに未発達の児童・生徒が使用するもので、その使用が義務付けられていること、それ故に、その内容について一定の水準が保たれる必要があること、内容の正確性、立場の中立・公正が要求されること、さきに第二、一で述べたような児童・生徒の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列を行うなど教育的配慮が求められるものであることなどの点で、一般の図書とは性質を異にするのであって、国民が憲法上言論・出版の自由を有することから、直ちに、その著作に係る図書をもって教科書として発表し、出版し、採択の場に提供する権利までが保障されているということはできず、この意味において、国民は、本来教科書を発表し、出版する権利を当然に有しているとはいえないのである。したがって、教科書検定の効果として、教科用図書原稿を教科書として発行することが許されないこととなる場合があり得るとしても、当該原稿の発表、発行自体を禁止するものでない以上、教科書検定制度は、「検閲」に当たらないというべきである。

3  事前抑制の禁止について

表現行為に対する事前抑制は、出版物その他の表現物がその自由市場に出る前に抑制してその内容を読者等の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであって、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法二一条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容され得るものといわなければならない(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。

教科書検定制度について、これをみるに、教科書検定の対象となる教科用図書の原稿は、出版されて市場に出る前の図書に限定されないのであるから、その検定は、必ずしも常に事前抑制に当たるとはいえないし、教科用図書の検定に不合格となった原稿であっても一般図書として出版することは自由であるから、その抑制も表現物が自由市場に登場すること自体を抑止するものではなく、教科書という表現形式をとるものに対するものにとどまるということができるが、他方、教科書として出版するには常に事前に検定を経なければならず、教科書という形での表現行為に対する事前抑制であることは否定し得ない。しかしながら、教科書は、前述のとおり、心身ともに発達途上にある児童・生徒に対し、その使用を義務付けているもので、その内容について一定の水準が保たれる必要があり、内容の正確性、立場の中立・公正が要求され、また、さきに第二、一で述べたような児童・生徒の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列を行う等の教育的配慮が要請されるなど、教育上の観点からの一定の規制が必要であることは否めないところである。更に、教科書に対する規制を事後規制のみに任せるときは、教科書として不適切なものが全国的な規模で普通教育の主たる教材として使用に供せられた後に、その使用を中止しなければならないことが起こりかねないのであり、その際には、児童・生徒の教育に対して回復し難い影響が生ずる可能性が少なくないこと、いったん広く開始した教科書の使用を後になって中止するとすれば、これによる大きな経済的損失の発生を免れないことなどにかんがみ、看過し得ない結果をもたらすのである。このような事情に照らすと、教科書検定が教科書という形での表現行為に対する事前抑制に当たるとしても、これを許容すべき特段の必要性、合理性が存するということができ、このように解しても、先に説示した憲法の趣旨に反するものとはいえない。

もとより、国が、さきに述べた教育上の観点からではなく、特定の思想的立場に基づき、不適当と認める思想内容等を表現した記述を排除することを目的として教科書検定の事前審査を行うことは、憲法二一条一項の規定から許されないと解し得るが、このことは、さきに述べた教育上の観点から当該記述が教科書として適切か否かを必要かつ相当な範囲で事前審査することを否定する理由となるものではない。

4  法文の明確性について

表現の自由は、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであって、法律をもって表現の自由を規制するについては、基準の広範、不明確の故に当該規制が本来憲法上許容されるべき表現にまで及ぼされて表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないように配慮する必要があり、事前規制的なものについては特に然りというべきである。

そこで、検定関係法令についてこれをみるに、教科書検定制度を構成する関係法令は、さきに第二において判示したとおり、学校教育法二一条(これを準用する四〇条、五一条、七六条)、文部省設置法五条一項一二号の二、教科書の発行に関する臨時措置法二条、教科用図書検定規則、教科用図書検定基準であるが、検定に関する実体法規ともいうべき検定の基準を定めているのは、右のうち教科用図書検定基準である。しかるところ、検定基準には、誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤りといった明確な事項にとどまらず、さきに第二、四において示したところによれば、多義的、抽象的な事項が少なからず含まれているといわざるを得ない。

一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定し、実現すべき立場にある国は、国民から信託を受けた結果として、国政の一部として、広く適切な教育政策を樹立、実施すべき責務を負っているのであり、子ども自身の利益の擁護のため又は子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に応えるため、授業の主たる教材である教科書についても必要かつ相当と認められる範囲で、その内容に関与ないし介入し得るが、他方、教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であるべきで、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は許されないと解すべきことは、さきに一3(六)に判示したとおりであって、文部大臣が検定基準を設けてこれを公示しているのも、検定の公正と適正とを保持するためであることはいうまでもない。かかる観点からいえば、文部大臣を覊束すべき検定基準は、できる限り明確であることが要請されるというべきであり、基準が明確であってこそ著作者等の自由な発想が不当に妨げられないのである。

しかし、他方、教科書検定は、教科書が、心身の未発達な児童・生徒がその使用を強制されるものであることにかんがみ、その内容について、一定の水準の保持、正確性、中立・公正の確保、子どもの発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列といった教育的配慮を施すことを目的とするものであって、いかなる記述が教育的配慮の観点からして不適切であるかについて、あらゆる場合を想定してこれらすべてに妥当する一義的、具体的な基準を網羅的に設けることは著しく困難であるといわざるを得ないのみならず、逆に、一義的、具体的な基準を設けるとしてもそれが詳細にわたり画一的となるときは、国が国定の教科書を著作するのと異ならない結果ともなる虞があり、著作者、発行者の創意工夫に期待し、多様な内容を持つ教科書を確保するという現行検定制度の制度目的を没却することにもなりかねない。そうであるとすれば、教科書検定の目的及び事柄の性質からして、検定基準は、個別的具体的な面を捨象して、ある程度一般的概括的な表現によって定めることにも、相当な合理的理由があるというべきである。

もとより、教科書検定は、前記のような教育的配慮を施すことを目的として、そのために必要かつ合理的な規制を行うものであって、国が教育上の観点以外の政策的な観点から恣意的な規制を行うことは許されず、その運用は、上記の目的を達するために必要かつ相当な範囲にとどまるべきであることはいうまでもない。したがって、検定基準がある程度概括的な表現によって定められる場合には、その検定基準を根拠として、右の範囲を超える検定運用がなされる虞がなくはないが、その運用に当たっては、検定関係者は、上記目的に適った客観的合理的解釈を旨とし、いやしくも独断恣意に陥ることなく、検定基準の概括性を理由に教育的配慮を強調する余り必要以上に著作者の表現の自由を制限することのないように心すべきである。しかしながら、これらのことは、前述のように検定基準がある程度概括的な表現によって定めざるを得ないという合理的理由を否定するまでには至らず、また、現行の検定基準も、専門的知識・経験を有する著作者又は発行者の理解において、具体的場合に当該教科用図書原稿記述がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれないまでに至っているとはいうことができないから、いまだこれをもって規定上不明確として違憲無効としなければならないものではないと解するのが相当である。

5  教科書検定制度の合憲性審査

表現の自由が憲法の保障する自由の中でも特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないことは、さきに述べたとおりであるが、もとよりその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益を図るための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることも、やむを得ないところといわなければならない。

ところで、教科書は、小学校、中学校及び高等学校等において、授業の主たる教材として、心身ともに未発達の児童・生徒に対しその使用が義務付けられていること、公教育たる学校教育においては国民の教育を受ける権利を保障するために教育の機会均等と教育水準の維持向上が必然的に要請されることを合わせ考慮すると、教科書については、その内容について一定の水準が保たれる必要があり、内容の正確性、立場の中立・公正が要求されるとともに、児童・生徒の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列が求められるなど教育的配慮が必要であることは、さきに第二、一に判示したとおりである。そして、教科書について、右のような教育上の観点からの要請が存在するのは、憲法二六条が保障する子どもの学習する権利の充足を図るという目的のためであって、この目的のためには、教科書著作者の表現の自由に一定の制限が加えられることは、やむを得ないものとして承認されなければならない。しかしながら、他方、表現の自由が特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないことにかんがみれば、教科書についてのさきに述べた要請のために教科書執筆者の表現の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる程度にとどめられるべきものである。したがって、右の制限が許されるためには、右の目的と制限を受ける表現行為とが合理的な関連性を有するとともに、右の制限の程度は、右の目的を達するために必要かつ相当な範囲にとどめられるべきものと解するのが相当である。もっとも、右のように解するときは、表現の自由に対する制約についての合憲性審査におけるいわゆる厳格な基準が必ずしも適用されない結果となるが、教科書は、本来、教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童・生徒用図書であり、あらゆる言論が必要最小限度の制約のもとに自由に競い合うことを前提とする表現の場であるいわゆる思想の自由市場とは異なるのであって、そこではなによりも子どもの学習する権利の充足を図ることが第一義的に考えられなければならず、その制約が、この目的のために必要かつ合理的な制約である限り、必ずしも表現の自由に対する必要最小限度の制約とは認められなくとも憲法上許容されるべき特段の理由があるというべきである。

ところで、教科書検定制度は、文部大臣が、新規に著作された図書又は既に発行ずみの特定の図書について、その著作者又は発行者の申請に基づき、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において教科書として使用するのに適切であるか否かを審査し、不適切とは認められないものについて教科書として使用し得る法律上の資格を設定するものであり、思想審査ないし学問介入を目的とするものではなく、あくまで右のような教育上の観点から当該表現物の教科書としての適格性を審査するもので、子どもの学習する権利の充足を図ることを目的とするものである。また、審査の結果、当該表現物が教科書として不適当と判断されたとしても、その教科書としての出版が制限されるにとどまり、一般の図書として出版することは自由であってその発表はなんら妨げられるものではない。したがって、子どもの学習する権利の充足を図るという教科書検定制度の目的と当該制度により制限を受ける表現行為とは合理的関連性を有するということができる。

そこで進んで、教科書検定制度が、さきに述べた教育上の観点からの要請を図るために表現の自由に対する規制方法として必要かつ相当な範囲にとどまると認められるか否かを検討する。この点に関し、原告は、①学校の各段階に応じて検定を緩め、高等学校については自由発行・自由採択とする、②選定、認定、推薦制等の事後規制とする、③検定基準、検定主体、検定手続の点でより緩やかな運用をする等のように、より制限的でない他の選び得る方法があると主張する。なるほど、教科書について自由発行・自由採択制度を採用した場合であっても、教科書著作者の自主的な教育的配慮や、教科書を教育現場において実際に使用する教師や親を含む第三者からの批判によって、高等学校における普通教育の本質とその特殊性に応じた教科書の内容についての教育上の観点からの要請にある程度応えることが期待できなくはないが、教科書著作者の自由に委ねるときは、子どもの学習する権利の充足という目的に出た右の教育上の観点からの要請が効果的かつ十分に達成されるという保障はなく、憲法が右の目的達成につき専ら右のような社会的自律作用による方法のみに期待していると解すべき合理的根拠も存しないのである。また、教科書検定は、表現の自由に対する権力的規制を行うものであるが、その規制の程度を検討すると、教科書検定の審査の結果、当該表現物が教科書として不適当と判断されたとしても、その教科書としての発表が制限されるにとどまり、一般の図書として出版することは自由であって、その発表はなんら妨げられるものではないことは、前述のとおりであり、教科書検定が表現の自由に対して有する制約的効果からみても、必要かつ相当な範囲を超えるものではないということができる。次に、教科書検定を事後規制に任せるときも、児童・生徒の教育に対して回復し難い影響が生ずる可能性が少なくなく、その他事前規制をも許容すべき特段の必要性、合理性が存することは、さきに3において判示したとおりである。更に、検定基準、検定主体、検定手続についてみても、現行教科書検定法令によるそれらが必ずしも表現の自由に対する規制方法として必要最小限度のものとはいい難いことは、原告主張のとおりであるが、それらはなお前記の目的からして必要かつ相当な範囲にとどまっているといって妨げないものと解される。

なお、学校教育法の制定により戦後の教科書検定制度が発足した当時は、いわゆる国定制の廃止に主たる眼目があり、自由発行制でなく検定制を採用するについての十分な議論はされなかったこと、文部省が、当時、著作者の資格を問わないこととして検定の門戸を広く開き、教科書著作者の創意工夫に期待し、自由な競争によりすぐれた内容を持つ多様な教科書が確保されるべきことを強調していたこと、戦後の教育改革における教科書検定制度の在り方として、一般行政機関から独立した教育委員会が地方の実情に応じて検定を行うこととする一方、それを文部大臣の定める基準に従って行うこととして教科書の内容の全国的な一定の水準を図るという構想が存在したことは、前記第一、三に判示したとおりであって、教科書についてさきに述べた教育上の観点からの要請があるとしても、それが必ず教科書検定制度という表現の自由に対する権力的規制方法によって達成されなければならないものではなく、教科書著作者の自主的配慮、教育的配慮の行き届いた教科書の採択や第三者からの批判等の社会的自律作用に期待して、より制限的でない方法を選択することも、あり得ないではないと考えられるが、これらのことは、国の採り得べき立法政策上の問題であって、現行教科書検定関係法令が表現の自由に対する規制方法として必要かつ相当な範囲にとどまるという前示判断を左右するものではない。

したがって、教科書検定制度が、表現の自由に対する規制方法として必要最小限度のものではないから、憲法二一条に違反する、とする原告の主張は、採用することができない。

三憲法二三条違反の主張について

1  憲法二三条違反に関する原告の主張の要旨は、次のとおりである。

(一) 憲法二三条の保障する学問の自由は、次の理由から、普通教育の場に及ぶというべきである。

教育は、その内容が学問的成果に基づかなければならず、その方法も教育学の成果に基づく研究・実践であり、内容的にもその社会的機能を全うするためにも学問と不可分である。また、戦後の教育改革において、戦前戦中の教育が超国家主義的な天皇制軍国主義国家体制の維持強化のための教化であったことへの深い反省の下に、学問と教育、学問の自由と教育の自由(自律性)の不可分性が強調され、その結果、教育において、真理の探究、学問の自由が尊重され、真理教育がなされなければならないことが、教育基本法にも規定されている。更に、ILO・ユネスコ勧告「教員の地位に関する勧告」(一九六六年)も、「教職員は職務上の任務遂行に当たって学問上の自由を享受すべきである」(六一条)とし、普通教育においても学問の自由が保障されるべきことの普遍性を明示している。

(二) 普通教育の場に―典型的には教師の教育の実践に―学問の自由が及ぶとすれば、そこで用いられる教科書の執筆に学問の自由の保障が及ぶことは明らかであるというべきである。したがって、教科書著作者が教科書原稿に盛り込んだ学問的見解の発表の制限・禁止をもたらすすべての権力的介入が禁止されるし、教育的配慮もそれ自体が学問的判断であることからすれば、学問の自由の保障は、教科書著作者が教科書原稿に盛り込んだ教育的配慮にも及ぶのである。

(三) 学校教育法二一条一項にいう「検定」が、その文言上の意味や歴史的実績から教科書記述の内容審査を当然の前提とするものであるとするならば、教科書検定は、教科書原稿の誤記・誤植等の是正にとどまらず、学問的判断事項を含む教科書の記述内容の審査に及び、また、それを通じて教科書著作者が教科書原稿に盛り込んだ学問的見解の発表を制限禁止することを不可避なものとするものであることは明らかであり、同条項及びその準用規定である同法四〇条、五一条、七六条及びこれらを受けて定められた教科用図書検定規則以下の行政立法のすべてが憲法二三条に違反するものとして無効であるというべきである。

(四) また、学校教育法二一条一項にいう「検定」が、教科書記述の内容審査を前提とするものでないとするならば、実質的な検定基準を構成する「教科用図書検定基準」、「学習指導要領」、「教科用図書検定審査内規」(教科用図書検定調査審議会決定)は、検定規則の委任を受けて、およそ教科書の内容・外観にかかわる総ての側面に関して、いかなる細目についても、またいかなる限度にわたっても検定当局が介入できる程度に、包括的・抽象的・多義的な規定を設けており、検定当局が教科書の記述内容に介入し、個々の教科書記述に盛り込まれた教科書著作者の学問的見解、記述内容・程度に関する教科書著作者の専門的・学問的観点からの教育的配慮を排除する根拠となっているものであって、教科用図書検定規則以下の行政立法のすべてが教科書著作者の学問の自由を侵害し、憲法二三条に違反するものとして無効であるというべきである。

2 学校教育法二一条一項にいう「検定」が、教科書の誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤りなど個々の記述内容の当否と直接かかわらない事項にとどまらず、それを超えてその記述内容に及ぶことのあり得ることを前提とするものであることは、さきに一5(一)に判示したところである。

確かに、憲法二三条の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、学問研究者がその研究の成果を発表する自由を含むものであることは、異論がなく、更にまた、研究成果の発表をし、これを教授する自由が普通教育の場においても一定の範囲において保障されるべきことは、最高裁判所の判例(最高裁昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁)の認めるところである。しかしながら、教科書は、普通教育における主教材としての作用を目的とするものであって、学問的・学術的研究発表の場を提供するためのものでないことは、さきに第二、一3に判示したとおりである。しかも、大学教育の場合には、学生が教授内容を批判する能力を一応備えていることを前提にすることが可能であるのに対し、高等学校以下の普通教育においては、児童・生徒にこのような能力がないか又は不十分であることを前提とせざるを得ないところ、教科書は、このように心身ともに発達途上にある児童・生徒に対し、その使用を義務付けているものであること、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等を図る上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等の普通教育の本質と特殊性に照らし、教科書については、内容における一定の水準の保持、内容の正確性、立場の中立・公正の確保を図るとともに、児童・生徒の心身の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列を行うなどの教育的配慮が要請されることなど、教育上の観点からの一定の制約が必要であることを合せ考えれば、教科書著作者には、右の教育上の観点からの必要かつ相当な範囲における制約があり、教科書という形での研究成果の発表の完全な自由を肯認することはできないといわざるを得ない。また、子どもの発達に関する科学的認識を前提とした適切な教育的配慮の在り方を研究対象とする教育学にあっては、その学問的実践として、こうした教育的配慮についての研究の成果を応用した教科書を発行する必要性の存することは否定し難いとしても、そのような必要性のために、かかる教科書の発行についてまで学問の自由の完全な保障が及ぶものとは解することができない。

もとより、教科書著作者の自主的な教育的配慮や教科書を教育現場において実際に使用する教師や親を含む第三者からの批判によって、普通教育の本質とその特殊性に応じた教科書の内容についての教育的配慮が払われることは否定できず、また、これに期待すべきところも少なくないけれども、それらによって、教科書著作者に教科書という形での研究成果の発表の完全な自由を認めることによる弊害が効果的に防止されるという保障はなく、また、憲法がかかる弊害の防止につき専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠も存しないというべきである。

なお、普通教育の場においても、特に教師については、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないのであるが、授業の教材として一定数の児童・生徒が共通に使用すべき教科書の執筆については、むしろこのような要請は希薄であるといわざるを得ない。そして、普通教育における教育内容については、さきに述べた普通教育の本質と特殊性に基づく教育上の観点からの一定の制約が必要であるところ、教科書の執筆につき右の観点からの一定の制約として検定制度を設ける方法によりこれを図ることとする一方、教師については、教授についての右裁量を尊重し、直接これを制約することにはそれだけ慎重な態度を取ることとすることには、それなりの合理性が存するものというべきである。

所論の教科用図書検定規則、教科用図書検定基準、高等学校学習指導要領、教科用図書検定審査内規のいずれをみても、いまださきに述べた必要かつ相当な範囲の限度を超えて教科書著作者の研究成果の発表の自由を制限しているものとはいうことができないから、原告主張の教科書検定関係法令は、憲法二三条に違反するものではないというべきである。

もっとも、国が、さきに述べた教育上の観点からではなく、特定の立場に立って、これと相容れないと考える学問研究成果を表現した記述を排除する、という学問介入それ自体を目的として教科書検定の審査を行うことは、憲法二三条により許容されないと解されるが、このことは、さきに述べた教育上の観点から当該記述が教科書として適切か否かを必要かつ相当な範囲で審査し得ることを否定する理由となるものではない。

したがって、原告の憲法二三条違反の主張も採用することができない。

四法治主義違反の主張について

1  教科書検定制度の法治主義違反の点に関する原告の主張の要旨は、次のとおりである。

(一) 教科書検定の権限・組織と検定手続については、憲法・教育基本法に従い法律によって規定されなければならないところ、現行法上、教科書検定の趣旨、目的、手続、基準を定めている法律は存しない。学校教育法二一条、四〇条、五一条は、小学校、中学校及び高等学校における特定の範囲の教科書の使用について、教科書の発行に関する臨時措置法二条一項は教科書の定義についてそれぞれ規定するのみであり、また、文部省設置法五条一項一二号の二、八条一三号の二は、教科書検定についての組織を定めるものにすぎない。

(二) 教科書検定制度が、憲法の保障する表現の自由、学問の自由、教育の自由等の基本的人権と深くかかわり合いをもち、これらを制限する虞のあるものであるとともに、事前の規制であることから、教科書検定の下位法令への委任に当たっては、当該授権法に、教科書検定の意義、目的、要件、基準が具体的、個別的、限定的かつ厳密に規定されなければならず、その内容も合理的で明確なものでなければならない。ところが、右授権法である学校教育法八八条、一〇六条は、全くこの基準を充たしていない白地の包括的委任であり、憲法の法治主義に違反するものである。したがって、受任法令であるべき教科用図書検定規則は、法律の委任を欠く無効なものである。また、教科用図書検定規則三条に基づいて定められている教科用図書検定基準は、学校教育法自体に再委任の根拠規定がなく、また、再委任が許されるとしても、右委任立法の基準を充たしていないので法治主義に反し無効である。

2  教科書検定制度の法的根拠

(一) 近代国家においては、国民の権利、自由を制限する公権力の行使が国会によって制定された法律に基づいてなされなければならないとする法治主義ないしは法の支配の原則は、確立された基本原理とされており、わが憲法もこの法治主義の原則を基本原理としていることは、憲法四一条、一三条の規定の趣旨に徴しても明らかということができる。

ところで、現行教科書検定制度について正面から明文をもって検定の内容、基準、手続等を定めた法律は存せず、僅かに現行法上の教科書検定権限の根拠及びその組織等を定めた法律の規定が存するのみであるが、これは、ほぼ次のとおりである。

(1)① 学校教育法二一条一項は、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定め、中学校(同法四〇条)、高等学校(同法五一条)並に盲学校、聾学校及び養護学校(同法七六条)につき、それぞれ右規定が準用されている。

② 同法(昭和五八年法律第七八号による改正後のもの)二一条三項は、「第一項の検定の申請に係る教科用図書に関し調査審議させるための審議会については政令で定める。」と規定している。

③ 同法八八条は、「この法律に規定するもののほか、この法律施行のため必要な事項で、地方公共団体の機関が処理しなければならないものについては政令で、その他のものについては監督庁が、これを定める。」とし、右監督庁は、同法一〇六条一項により、当分の間、文部大臣とするとされている。

(2)① 文部省設置法(昭和五八年法律第七八号による改正前のもの。以下同じ。)五条一項は、「文部省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため、次に掲げる権限を有する。ただし、その権限の行使は、法律(これに基づく命令を含む。)に従ってなされなければならない。」と規定し、同項一二号の二は、右権限として、「教科用図書の検定を行うこと」を掲げている。

② 同法八条本文は、「初等中等教育局においては、次の事務をつかさどる。」と規定し、同条一三号の二は、右事務として、「教科用図書の検定を行うこと」を掲げている。

③ 同法二七条一項は、「本省に次の表の上欄に掲げる機関を置き、その設置の目的は、それぞれ下欄に記載するとおりとする。」と定め、右表中に次の欄を掲げている。

種類

目的

教科用図書検定調査審議会

検定申請の教科用図書を調査し、及び教科用図書に関する重要事項を調査審議すること。

また、同条二項は、「前項に掲げる機関の分科会、内部組織、所掌事務及び委員その他の職員については、他の法律(これに基づく命令を含む。)に別段の定がある場合を除くほか、政令で定める。」と規定している。

(3) 教科書の発行に関する臨時措置法二条一項は、「この法律において『教科書』とは、小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であって、文部大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有するものをいう。」と規定している。

(4) 以上が、現行教科書検定制度の根拠等を定めた法律とされるものであるが、本件検定当時、国家行政組織法七条五項、文部省設置法二七条二項、学校教育法四三条、八八条、一〇六条に基づき、次の法令が定められていた。

① 教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号)

② 高等学校教科用図書検定基準(昭和五四年文部省告示第一三四号)

③ 高等学校学習指導要領(昭和五三年文部省告示第一六三号)

④ 高等学校教科用図書検定基準実施細則(昭和五四年七月一二日文部大臣裁定)

⑤教科用図書検定規則の実施の細目(昭和五四年文部省初等中等教育局長通知)

⑥ 文部省組織令(昭和二七年政令第三八七号)

⑦ 文部省設置法施行規則(昭和二八年文部省令第二号)

⑧ 教科用図書検定調査審議会令(昭和二五年政令第一四〇号)

⑨ 教科用図書検定審議会規則(昭和三一年一一月三〇日教科用図書検定調査審議会決定)

⑩ 教科用図書検定調査分科会の部会の設置および議決事項の取扱に関する規程(昭和四五年一二月九日教科用図書検定調査分科会決定)

⑪ 教科用図書検定審査内規(昭和五三年六月一五日教科用図書検定調査審議会決定)

⑫ 教科用図書検定審査内規の実施に関する細目(昭和五三年六月一五日教科用図書検定調査審議会決定)

(一)  ところで、教科書検定制度は、教科書著作者の有する表現の自由に対する権力的介入の危険をはらむものであるから、法治主義の下における「法律による行政」の原理からして、法律の根拠を必要とするものであることはいうまでもない。しかしながら、法律による行政の原理といえども絶対的なものではなく、行政領域が拡大し、複雑化し、とりわけ専門的、技術的事項が増大し、しかも、これに対する行政の機敏な対応が要求されるようになるに及び、委任立法の必要性が生じているが、そもそもこの原理は、国会が行政活動に対し根拠法律の定立によって正当性を付与するとともに、これにより行政活動に対する民主的統制を確保し、もって国民の権利ないし自由を保障することを目的とするものであるから、ある特定の法律が行政活動やそれにかかわる制度の根拠規定となるか否かを判断するについては、かかる観点からの検討が必要である。また、ある制度の根拠法規を下位の法令に委任するについてどこまで法律で具体的に規定する必要があるかを判断するについても、法律による行政の原理からしてその総てを法律で規定することまでも要求されると解すべきではなく、法律に明文のある場合のほか、右に述べた観点からみて委任につき法律上相当の根拠を有するとともに国民福祉行政上の合理的必要性があると認められる場合にも、かかる委任が許容されると解すべきである。もっとも、憲法四一条が国会をもって国の唯一の立法機関と定めている趣旨からして、いかなる委任立法がなされるべきか全く不明な包括的委任であって、国会の立法権を侵す程度に至るものは許されないというべきである。

そこで、教科書検定制度についてこれをみると、現行教科書検定制度においても、文部省設置法のような行政庁の組織に関する法律又は教科書の発行に関する臨時措置法のように単に教科書の定義を明らかにしたものは別としても、学校教育法二一条一項、四〇条、五一条、七六条は、前記の観点からみた場合、文部大臣に同法所定の教科書検定に関する実施権限が存することについての相当の根拠規定たり得るものと解することができる。

また、学校教育法が教科書検定制度を採用するに当たって、その内容、基準、手続について、法律の明文で規定することがなかったことについては、学校教育法制定当時、終戦前の教育の軍国主義的又は極端な国家主義的色彩を排除するに急なあまり、いかなる内容、基準、手続をもった教科書検定制度が、戦後の教育の目的、すなわち、子どもの教育が、子どもの学習する権利に対応して教育を与えるものの責務として行われるべきであるとの観念に基づき、個人の尊厳を重んじ真理と平和を希求する人間の育成を図ろうとする目的に沿うものであるかを一義的には定め得ず、教科用図書委員会の答申を待たなければならなかったという事情が存するのである。更に、さきにみたとおり、教科書については、その内容における一定の水準の確保、中立・公正の保持、児童・生徒の心身の発達段階に応じた内容の選択及び組織配列が要請されるところ、教科書検定の目的は、かかる教育上の観点からの要請の充足を図ることにあるのであるが、そこでは児童・生徒の心身の発達段階や学習の適時性を考慮することが必要であること、右検定の対象も教科用図書検定原稿の記述内容にまで及び得ることからして、誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤りはさておき、いかなる基準がこの観点からして適合的であるかは、教育専門的、技術的事項であって、必ずしも立法過程になじむものでないといわざるを得ず、また、教科書検定制度においては、相当多数の教科用図書原稿について審査を行い、予定年度に使用されるべき教科書として一定量を確保することが要請されることから、その手続についても同様のことがいえるのである。したがって、教科書検定の内容、基準、手続等について、法律の明文で規定することなく、省令以下の下位法令の規定するところにこれを委ねることにも、合理的必要性が存するというべきである。

他方、我が国における教科書検定制度の長年にわたる沿革、実績からして、右制度の目的、趣旨は勿論のこと、その手続の大要についても、形式的に法律に規定することがなくても、著作者、発行者を含む検定関係者はもとより国民にとっても自明なものとして理解が可能な事柄であったというべきである。また、教科書検定の実体的要件たる検定基準については、前述のとおり、戦後の教育改革に伴い終戦前のそれから大幅に変更されることになったが、教科書の記述に脱字、誤植あるいは誤記等がないことや中立性・公正の保持等教科書検定制度の目的自体から条理上導かれるものもあり、更に、憲法二六条の規定、教育基本法の定める教育の目的、方針及び学校教育法の定める各学校の目的、目標等からある程度の理解が可能な事柄であったということができる。したがって、現行法上教科書検定の内容、基準、手続等について、明文をもってこれを規定した法律が存しなくても、概ね右の範囲でいかなる委任立法がなされるべきかについての指針は与えられていたということができ、学校教育法の規定をもって、憲法四一条に反する包括的な委任であると断ずることはできない。

以上のような各点を合わせ考えれば、現行法上教科書検定制度の内容、検定の基準、手続等についてこれを規定した明文の法律は存しなくても、少なくとも学校教育法の諸規定が、相当の根拠規定たり得るのみならず、右の各事項を法律に規定することなく、学校教育法八八条、一〇六条の規定を法律上の相当の根拠として省令以下の下位法令の規定するところにこれを委ねることにも合理的必要性があり、更に、かかる委任に際していかなる委任立法がなされるべきかについても一定の指針は与えられていたということができるのであって、現行教科書検定制度が、直ちに憲法の要請する法治主義に違背するものということはできない。また、検定規則以下の再委任についても同様である。

(三) なお、右(4)の③に掲げた本件検定当時の高等学校学習指導要領は、学校教育法四三条、一〇六条に基づき制定された同法施行規則五七条の二に根拠を置いて定められたものであるのみならず、その内容は、第一章総則、第二章各教科、第三章特別活動の三章から構成されるものであって、その第一章においては教育課程編成の一般方針等、全日制・定時制及び通信教育の各教育課程について生徒が履修すべき教科・科目、特別活動等を、また、第二章においては各教科毎の目標並びに各科目毎の目標、内容、指導計画作成及び指導上の留意事項等をそれぞれ定めているものであるが、本件に関係する第二章第二節社会第二款中の第二日本史の項は、総頁数一五八頁のうち僅かに約二頁であり、しかも、その記述内容は、全般的にみて、高等学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項がその根幹をなしており、教師による独創的かつ弾力的な教育・指導の余地や地方毎の特殊性を反映した個別化の余地を残していて、全体としては、なお全国的な大綱的基準としての性格を持つものと認められ、また、内容においても、教師に対して一方的な一定の理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制するような点を含むものではないということができる。したがって、右学習指導要領は、全体としてみた場合、少なくとも法的見地からは、教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ相当な基準として法的拘束力を有するものと解するのが相当である(最高裁昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁、最高裁昭和五一年(あ)第一一四〇号同五四年一〇月九日第三小法廷判決・刑集三三巻六号五〇三頁参照)。

五憲法三一条違反の主張について

1  教科書検定制度の憲法三一条違反の点に関する原告の主張の要旨は、次のとおりである。

現行の教科書検定制度は、検定済教科書以外の教科書の発行を禁止することによって、検定不合格とされた教科書による教育あるいは学習をする機会を奪うとともに、検定当局によって修正させられた教科書によってのみ教育あるいは学習することを強いるものであって、教科書著作者の教育の自由、表現の自由及び学問の自由を制約するのみならず、教師の教育の自由、さらには多数の児童・生徒の学習する権利をも制約するものである。教科書検定によって制約されるこれらの権利・自由はいずれも個人の人格の形成と展開という点からも、また民主主義の維持、運営という点からも重要不可欠な精神的自由権であって、しかも、それらは一度不当に侵害された場合には、事後的な救済によっては極めて不十分にしかその回復が図れない性質のものであるから、それを規制する行政手続においては、一般的な経済的自由権の制約の場合に比較してより厳格な適正手続の保障が憲法三一条から要請されるところ、現行教科書検定制度及びその運営実態は、この要請に違反している。具体的には、(一)教科書検定により直接の利害関係を有する教科書著作者及び発行者に対し、原稿本審査を初めとする総ての段階において告知・聴聞の機会が十分に与えられることが必要であるところ、原稿本審査不合格処分の理由は、その一部が例示されるにとどまるし、条件付合格処分も外形上聴聞の手続が整っているかのようであるが、種々の時間的制約が設けられており、また、時間的制約のあることを利用して改善意見についても事実上修正を強いている。(二)教科書検定処分に際しては、その処分理由は、文書で具体的に示される必要があるところ、不合格処分及び条件付合格処分の理由は、口頭で告知されるにすぎない。(三)教科書検定における判定機関は、公正でなければならないところ、検定審議会委員や教科書調査官の選任について中立・公正を保障する仕組が全く欠如している。(四)教科書検定における手続は、公開される必要があるところ、審議会における審議内容、教科書調査官及び調査員の調査意見書及び評定書等は非公開とされている。(五)教科書検定における審査基準は、不公正ないし恣意的な運用を許さない明確なものでなければならず、あらかじめ被処分者や利害関係人等に告知される必要があるところ、本件検定当時の検定における審査基準は、いずれも包括的、多義的、抽象的である。

2  適正手続の保障

(一) 憲法三一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定しているが、同規定は、アメリカ合衆国憲法修正五条の「何人も、法の適正な手続によらなければ、生命、自由又は財産を奪われることはない。」との規定及び修正一四条の「いかなる州も、法の適正な手続によらなければ、何人からも生命、自由又は財産を奪うことはできない。」との各州に対する規定における適正手続の原則に由来するものであるということができる。

ところで、憲法三一条は、規定中の「又はその他の刑罰を科せられない」との文言から窺われるように、刑事手続に関するものであることを示唆しており、また、刑事手続に関する憲法三二条以下の規定の冒頭に置かれていることからしても、憲法三一条は、主として刑罰権の発動に関する人身の自由の基本的原理として設けられたものであることが看取されるが、同規定が特に「その生命若しくは自由を奪われ」と定めていて、厳格に刑事手続に限る旨規定していないこと、同規定がアメリカ合衆国憲法に由来するものであることを考え合わせると、当該手続が、刑事手続ではないとの理由のみで、当然に憲法三一条の保障の枠外にあると判断することは相当でなく(憲法三五条、三八条に関する最高裁昭和四四年(あ)第七三四号同四七年一一月二二日大法廷判決・刑集二六巻九号五五四頁の趣旨参照)、結局、個人の生命、身体、財産に対し刑罰又は刑罰類似の制裁を科する手続について本条が適用されるものと解すべきである(最高裁昭和三七年(ク)第六四号同四一年一二月二七日大法廷決定・民集二〇巻一〇号二二七九頁参照)。そして、教科書検定手続がかかる手続に当たらないことは明らかであるから、これに憲法三一条の直接の適用はないといわなければならない。

(二) しかしながら、教科書検定は、国民の基本的人権であるとともに特に重要な憲法上の権利として尊重されるべき表現の自由、学問の自由に重大なかかわりを有するものであるから、検定の合否の決定が実体的に正当であるばかりでなく、手続的にもその適正と公正が保障されなければならない、と解され、また、文部省設置法(昭和五八年法律第七八号による改正前のもの)二七条一項及び学校教育法(昭和五八年法律第七八号による改正後のもの)二一条三項(同法四〇条、五一条により中学校、高等学校に準用)において、検定申請に係る教科用図書に関し審議させるために多数の専門学識者や経験豊富な教職員らを構成員とする審議会を設けているのも、右審議会の調査審議の結果等を参考にして文部大臣が適正な過程により検定の合否の決定をなすべきことを明らかにしたものであるということができる。そして、このことは、教科書検定の法的性質を特許行為と解するかどうかによって左右されるものではない。

教科書検定は、教科書著作者の表現行為に対する事前の抑制となることがあることから、検定の実体的要件たる検定基準については、原則として明確性の原則が妥当するといえるが、他方、教科書の内容についての一定の水準の保持、正確性、立場の中立・公正の確保、子どもの発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列といった教育的配慮を施すという検定の目的からして、ある程度概括的な表現によって定めざるを得ないことは、さきに二4に判示したとおりであって、この観点からすると、教科書検定手続において、適正かつ公正な検定の合否の決定を担保するために求められる適正手続保障の要請は、小さくないといわなければならない。

ところで、ある行政手続が適正なものであることが要請されるとしても、具体的にその手続がいかなるものであるべきかは、一義的には決定されず、当該行政行為の目的、性質、これにより規制を受けるべき権利や自由の性質など一切の具体的事情を斟酌して各別に決するほかない。そこで、以下、現行教科書検定手続(本件検定当時のものをいう。以下同じ。)について検討する。

(三)(1) 告知・聴聞手続の保障

教科書の記述は、教育学を含む学問研究の成果を反映したものであるべきであるが、当該記述が学問研究及び教育的配慮の上でいかなる根拠に基づくものであるかは、高度の認定判断を要するものであるところ、学問研究は日々進歩するものであって、検定機関がその総てを把握することは困難であること、他方、教科書は限られた紙幅の中で記述を行うものであるから、教科書著作者が先の意味でいかなる根拠に基づいて当該記述を行ったかは、教科書の記述だけからでは必ずしも容易に知り得ないこと、また、教科書検定は思想を含む表現物の内容に及ぶ審査を行うものであるにもかかわらず、その検定基準については、これをある程度概括的な表現によって定めざるを得ないため、記述内容が検定基準を充たしているか否かの判断は、微妙な問題を含むものであることからすると、教科書著作者に聴聞の機会を与えて自らのよって立つ根拠を明らかにさせることが検定処分の恣意性、独断性を排除して公正かつ適正さを担保する所以である。

しかるところ、現行教科書検定手続における検定処分の理由の告知についてみると、文部大臣が、原稿本審査の段階で条件付合格又は不合格の決定を行う場合には、当該決定の理由を申請者に告知することとしており、教科書調査官がその任に当たっていること、右決定に際しては、申請者に対し、条件付合格の場合には、口頭をもって修正意見・改善意見の付された箇所全部につき逐一告知し、不合格の場合には、事前に不合格理由の総括的な概要及び個々の欠陥の主なものを記載した文書を交付するとともに、口頭で補足説明を行うことは、さきに第二、五3(一)(5)に判示したとおりである。また、現行教科書検定手続における申請者の聴聞についてみると、教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号による改正後のもの)においては、第一に、条件付合格の通知を受けた者は、修正意見の内容に異議のある場合には、一定期間内に当該修正意見に対する意見申立書を文部大臣に提出することができ、右意見申立書の提出があった場合には、文部大臣は、審議会の議を経て、申し立てられた意見を相当と認めるときは、当該修正意見を取り消すものとしている(同規則一〇条)こと、第二に、文部大臣が検定審査不合格の決定を行おうとするときは、事前に検定審査不合格となるべき理由を申請者に通知し、右通知を受けた申請者は、一定期間内に反論書を文部大臣に提出することができ、右反論書が提出されたときは、文部大臣は、これを添えて当該原稿本について、再び審議会に諮問し、その答申に基づいて原稿本審査合格(条件付合格を含む。)又は検定審査不合格の決定を行うものとしている(同規則一一条)ことは、さきに第二、五3(一)(6)に判示したとおりである。そして、証人木谷雅人の証言及び弁論の全趣旨によると、通年にわたり相当多数の申請原稿について申請と調査が行われており、しかも原稿本審査の結果、その相当部分は条件付合格となるが、更に検定意見の付された箇所について内閲本審査を続行しなければならず、引き続き、申請のあった年度内ないしこれに近い期日までに見本本審査に至る総ての合否決定とその通知を終え、検定審査合格の原稿については毎年七月一日から一〇日間開催される教科書展示会に見本本を出品させ、翌年度の採択を可能ならしめるようにしなければならないとの実際上の要請もあって、極めて限られた期間内に相当大量の申請原稿の調査及び審査を了することが要請されることが認められ、前示の教科書検定の目的、性格、手続構造に右のような検定の実情を合わせ考えれば、現行教科書検定手続は、告知・聴聞の手続が相応に保障されたものと評価して妨げないというべきである。

なお、原告は、申請者側において、書目の届出の時期や教科書展示会への見本本出品の期限が限られている状況の中で、検定者側においては、原稿本審査、内閲本審査、見本本審査についての審査期間の制限が設けられていないため、改善意見に対して申請者がこれを拒否する自由は実質的に制限されていると主張する。

改善意見とは、修正意見相当箇所(欠陥と判断される箇所で、原稿本に訂正、削除又は追加などの措置をしなければ教科用図書として不適切であると判断されるもの。)として指摘するには至らないが、原稿本に訂正、削除又は追加などの措置をした方が教科用図書としてよりよくなると判断される箇所に付される検定意見で、修正するかどうかを最終的には申請者の意思に委ねるものであることは、さきに第二、五3(一)(3)に判示したとおりである。また、現行教科書検定手続において、申請者に対しては内閲本及び見本本を一定期間内に提出することを定めているのに対し、審査期間についてはなんら定めが置かれていないことは、さきに第二、五3(四)に、見本本審査合格が遅れ、通常毎年七月一日から約一〇日間開催される教科書展示会への出品が間に合わないと、事実上採択を受けることが不可能となることはさきに第二、五4にそれぞれ判示したとおりである。右の諸事実に照らせば、教科書調査官において、審査期間に制限が設けられていないことを奇貨として、申請者が改善意見に従った修正を行わない限り内閲本審査について合格と判定しないこととするなど、右修正を施させる目的でことさらに検定審査手続を遅延させることは、改善意見の趣旨に反し、検定関係法令に違反するといわざるを得ない。

しかしながら、現行教科書検定手続が審査期間の制限についての定めをおいていないために、右のような運用が場合によっては可能であるとの一事をもって、直ちに手続的保障に欠けるということはできない。むしろ、現行教科書検定手続においては、修正意見に対する意見の申立てを行っている場合には、とりあえずその箇所については修正を加えないまま内閲本を提出することができ、意見申立てをしても内閲本審査には支障がないように配慮されていること、書目の届出時には現に検定申請中のものでも既に原稿本審査に合格しているものについては届け出ることが認められ、採択には支障がないように配慮されていることは、さきに第二、五3(二)及び4に判示したとおりであって、手続に遅延を避け、あるいは遅延しても採択に支障が生じないように配慮がされているのである。したがって、具体的にみて前記のように検定関係法令に違反する運用がなされたと認められる場合に初めて手続的保障に欠けるというべきものと解される。そこで、さきに第三、一に判示した昭和五五年度検定の経過をみると、昭和五五年度検定において三省堂の申請に係る本件原稿が見本本審査合格となったのは、昭和五六年七月八日であったが、この時点まで見本本審査合格が遅延するに至ったのは、本件原稿に対する修正指示が多数に及んだため、三省堂において、内閲本提出、再度修正を加えた内閲本提出、見本本提出のそれぞれに手間取ったことに起因するといわざるをえず、むしろ、教科書調査官は、三省堂従業員に内閲本の提出を催促していたほどであるし、また、内閲本審査の各期日も、教科書調査官が一方的に指定したものではなく、右三省堂従業員との間で取り決めたものであって、教科書調査官がことさらに検定手続を遅延させようとしていた事情は全く窺うことができない。また、本件において原告が請求原因5(二)(1)及び(3)に挙げた改善意見の付された二箇所(親鸞に関する記述及び日本の侵略という記述)について原稿本の記述がそのまま検定審査合格となったことは、当事者間に争いがなく、このことからも、改善意見に従った修正を事実上強制する運営がなされたものとは認めることができない。

したがって、審査期間を制限する定めがないことが、申請者において改善意見を拒否する自由の制限となり、手続的保障に欠けるということはできず、この点に関する原告の主張は理由がない。

(2) 文書による検定処分理由の提示

現行教科書検定手続においては、検定申請不合格の場合には、申請者に対し、不合格理由の総括的な概要及び個々の欠陥の主なものを記載した文書を交付するとともに、口頭で補足説明を行っているのに対し、条件付合格の場合には、口頭をもって修正意見・改善意見を告知するのみで、文書による告知を行っていないことは、さきに述べたとおりである。証人小原大喜男及び同時野谷滋の各証言によれば、修正意見・改善意見の告知において、しばしば告知内容についての誤解が生じ、それが内閲本審査の長期化の原因ともなることが認められ、右事実に照らせば、条件付合格の場合の理由告知についても、条件指示は文書により行い、その際に口頭の補足説明も併せて行うことにすることが望ましいことは明らかである。しかしながら、さきに(1)で述べた検定の実情に照らせば、通年にわたり相当多数の申請原稿について申請と調査が行われており、しかも原稿本審査の結果、その相当分は条件付合格となるのであるが、条件付合格となった総ての原稿についてこのような通知文書を作成することは実際上困難であると認めざるを得ないところ、現行教科書検定手続においては、理由告知の際、口頭で詳細に説明することとし、速記、録音機などの使用を認めることとしているのであって、また、さきに第三、一2(一)に判示したとおり、本件各検定の経過において、教科書調査官の告知内容に不明な点があるときは、適宜、その場において、質問等によりその趣旨を確認することができたし、後日、電話又は教科書調査官との面接を通じて確認することもできたことを合わせ考えれば、現行教科書検定手続において、条件付合格の場合に理由告知を文書で行っていないことをもって手続的保障に欠けると断ずることはできない。

(3) 審査機関の公正

検定審査の公正を確保するため、文部省に教科用図書検定調査審議会(以下「審議会」という。)が設置され(文部省設置法―昭和五八年法律第七八号による改正前のもの。―二七条一項)、文部大臣は、申請に係る原稿本について、教科用として適切であるかどうかを審議会に諮問し、その答申に基づいて原稿本審査合格・不合格の決定を行うものとされ(教科用図書検定規則九条一項)、さきに第二、五3(一)(4)に判示したとおり、実際に文部大臣の検定審査合格の決定は、原則として審議会の答申どおりに行われている。

ところで、検定が公正に行われるためには、文部大臣の検定審査合否の決定が審議会の答申どおりに行われるばかりでなく、審議会の構成委員やその補助機関である教科書調査官、調査員の人選も公正に行われなければならないことはいうまでもない。教育は、本来人間の内面的価値に対する文化的営みとして、党派的な政治観念や利害によって支配されるべきではないが、教科書検定は、審査の内容が誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤り等個々の記述内容の当否と直接かかわらない事項にとどまらず、それを超えてその記述内容に及ぶことがあり、したがって、子どもの教育の内容そのものに対する介入となる虞があるものであるところ、さきに第一、三においてみたように、教科書検定を巡っては国内ばかりでなく国外も含む様々な立場からの批判ないし要望が寄せられ、その運用が政治的要因によって左右される危険がないとはいえないこと、教科書検定は、思想内容を含む表現物の内容にわたる審査を行うことがあるのであるが、検定基準をある程度概括的に定めざるを得ず、そのために教育上の観点から必要かつ合理的な範囲を超える検定運用がされる虞がないとはいい難いこと、教科書検定は、申請原稿について教科書としての適格性を判断するものであるところ、その判断には高度の学問的ないし教育的専門性・技術性が要求されるが、事柄の性質上、ある程度の見解の相違は免れないものであること等の各点にかんがみると、教科書検定についての適正手続の保障の原則の中でも、審査機関が公正に構成されるべきであるとの要請は大きいというべきである。そして、さきに判示したように、審議会の委員及び調査員は、文部大臣によって任命されることとされており、また、教科書調査官に文部省の職員を充てるとする人選方法を採っていることからして、これらの者の選任について文部大臣の恣意が介在する危険がなくはないが、そのような危険をはらむからといって、そのことから直ちに現行教科書検定制度が適正手続の保障に欠けるものと断定すべきではなく、具体的にみてそのような危険が現実化する運用がされている場合に初めてこれを肯定するのが相当である。

ところで、<証拠>によれば、審議会委員は、教育職員、学識経験のある者及び関係行政機関の職員のうちから文部大臣が任命することとなっているが(教科用図書検定調査審議会令―昭和五九年政令第二二九号による改正前のもの。―三条一項)、それ以外には、特段、任命の基準や要件は定められていないところ、各方面から推薦を得た者の中から任命されるのが例であり、その際、公正を確保するため、教科書の編集者及び発行者と関係のある者は除かれるようにされていること、調査員の資格については、文部大臣によって①調査担当教科・種目に関して学識経験が豊かであり、公正な立場で教科書原稿の調査評定を遂行することが期待できること、②年齢三〇歳以上であること、③現に発行されている教科書及びその教師用指導書の執筆・編集に関係がないこと並びに検定申請予定の教科書の執筆・編集に関係していないこと、④過去の一定期間に教科書会社の主催又は後援する教科書研究会等の講師になったことがないこと及びその企画に参加したことがないこと、⑤五年以上、中学校、又は高等学校の教職経験があること(中学校・高等学校関係者のみ)等の資格要件が設けられていること、調査員任命の方法については、右の資格要件を具備する学識経験者の中から、教育現場の教職員については都道府県教育委員会の推薦を得、また、大学関係者については大学の長の推薦を得て、それぞれ任命されるのが例であること、教科書調査官の選考については、①大学若しくは高等専門学校の教授若しくは助教授の経歴のある者又はこれらの者と同等程度の専門学識があると認められる者、②初等中等教育に関し、理解と識見を有する者、③視野が広く、かつ、人格が高潔である者、④思想が穏健中正で、身体健全である者、⑤原則として年齢三五歳以上五五歳未満の者、⑥現に発行されている教科書及び教師用指導書の著作・編集に従事していない者、その他教科書発行者と密接な関係のない者というような任用の基準が設けられて、人選が行われていること、教科書調査官の欠員の補充については、①国立大学等への推薦依頼、②文部省内外の専門分野の学識経験者への推薦依頼、③前任者からの推薦といった方法により候補者を求めてきたこと(もっとも、全般的に現在の教科書調査官の人脈に依存するところが大きい。)を認めることができ、本件各検定の当時、文部大臣による右審議会の委員、調査員、教科書調査官の各任命の一部又は全部が、原告の申請原稿についての合否の判定においてことさら不利な結果をもたらすような構成にするような意図をもって行われたとか、文部大臣がそのような意図を実現する方向への示唆をしたなど公正を欠いたものであったというべき事情を見出すに足りる証拠はない。

また、選任された審議会の委員等の個人的な政治的見解がいかなるものであろうとも、そのこと自体は、選任の公正・不公正にかかわる問題ではないし、また、学問的に原告と異なる見解を有する者が文部大臣によって選任されたからといって、そのことから直ちに不公正な任命が行われたと推認することもできない(もっとも、個人的思想といえども、極端なそれを表明し、審査機関の構成の公正らしさを損なう虞があるとみられる場合には、審査機関の公正らしさを担保するためにも、かかる点にも配慮した任命がなされることが望ましいことはいうまでもない。)。

更に、<証拠>によれば、審議会委員及び教科書調査官の選任について学界からの推薦制を採用することや審議会の下に教科書についての研究機関を設け、これが検定を実施することなどの提言も寄せられていることが認められ、このような方法も検定審査の公正を確保する上からみて相当な一つの方途といえるが、他方、<証拠>によれば、推薦制によった場合には、教科書調査官の待遇の面からも教科書調査官について必要な人数の確保が困難となる虞があることも認められ、さきに述べたように教科書調査官の人脈に依存するところが大きい人選方法にもやむを得ない面があることも否定できない。

したがって、現行教科書検定手続における審査機関の任命方法については、その妥当性を巡り批判の余地がないではないものの、いまだその任命方法ゆえに審査機関の構成が公正を欠くまでに至っているということはできず、法的観点からみて、手続的保障に欠けるものと断定するのは相当でない。

(4) 検定手続の公開

現行教科書検定手続については、その全部又は一部を公開すべきものとする法令はなく、また、現に審議会における審議過程並びに教科書調査官及び調査員の調査意見書及び評定書等の調査資料が公開されていないことは、当事者間に争いがなく、原告指摘のとおりである。

一般に、行政手続の公開は、行政の公正さを担保するのみならず、相手方、更には一般国民の行政に対する納得や信頼を確保する側面があり、現代の民主主義・法治主義国家においてその意義の大きいことは否定できないが、他方、行政の能率的運営、私人のプライバシー等を含む秘密の保持等の面からする制約もなくはなく、また、手続の公開以外の方法による情報の提供との兼合いもあって、結局、いかなる行政行為につきどの程度行政手続を公開すべきかは、これらの諸点及び当該行政行為の目的、性質、これにより規制されるべき権利・自由の性質等を考慮した上で決定されるべき立法政策の問題であるといわなければならない。

したがって、教科書検定手続については、その公表に関する法令の定めが存しない以上、立法論としては格別、現行法令の解釈としては、審議会における審議課程、教科書調査官及び調査員の調査意見書及び評定書等の調査資料が公開されていないことをもって、手続的保障に欠けるとすることはできない。

(5) 明確な審査基準とその公正な運用

教科書検定の目的からして、あらゆる場合を想定してこれらすべてに妥当する一義的、具体的な審査基準を網羅的に設けることは著しく困難であるといわざるを得ないのみならず、逆に、一義的、具体的な審査基準を設けるとしても、それが詳細にわたり画一的となるときは、著作者、発行者の創意工夫に期待し、多様な内容を持ち教科書を確保するという現行検定制度の制度目的を没却することにもなりかねず、検定基準をある程度一般的概括的な表現によって定めることにも、相当な合理的理由があること、現行の検定基準も、専門的知識・経験を有する著作者又は発行者の理解において、具体的場合に当該教科用図書原稿記述がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準として読みとれないまでに至っているとはいえないことは、さきに二4に判示したとおりであり、いまだ審査基準が不明確であるとして手続的保障に欠けるとするのは相当でない。

(四) 以上により、教科書検定制度が適正手続の保障の原則に違反するとの原告の主張も採用することができない。

第五本件検定処分における適用違憲の主張について

一適用違憲に関する原告の主張の要旨は、昭和五五、五六両年度の本件検定処分ないし検定意見(以上本項では「本件検定処分」という。)につき、(一)(教育内容介入性)本件検定処分は、憲法一三条、二六条及び教育基本法によって教科書著作者に保障されている教育の自由を侵害し、教育に対する不当な支配に該当する、(二)(学問の自由侵害性)本件検定処分は、憲法二三条の保障する学問の自由を侵害している、(三)(思想審査性)本件検定処分は、検定当局が特定の思想的立場から好ましくないと認める記述を排除し、好ましいと認める記述を書き込ませようとするものであって、憲法二一条、二六条、一三条に違反するものであり、また、昭和五七年度の正誤訂正申立ての不受理につき右(二)及び(三)と同旨の理由により、教科書検定関係法令の適用の過程における違憲違法がある、というのである。

二ところで、国が高等学校教育につきその特質性を配慮しつつ、許容される目的のため必要かつ相当と認められる範囲で関与することは、それがたとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、憲法上ないし教育基本法上許容されるものであること、したがって、前示の目的を有する教科書検定における審査にあっては、教科書の誤記、誤植その他客観的に明らかな誤りや教科書についての技術的事項など個々の記述内容の当否にかかわりのない事項にとどまらず、前示の範囲内では右事項を超えてその記述内容にも及び得るものであり、審査が記述内容に及ぶこと自体は、原告主張の憲法の各条項ないし教育の自由を侵害するものではないこと、本件検定処分当時の検定基準は、教科書検定の前示のような目的からみて、国の教育内容決定権の行使として必要かつ相当な範囲にとどまるもので、憲法の各条項ないし教育基本法一〇条に違反するものではないこと、学問の自由の保障という点からみても、普通教育の本質及び教科書の特殊性にかんがみ、教科書著作者にはその執筆に関して研究成果の発表の完全な自由が肯認されるものではないこと、教科書検定において著作者の教科書原稿における思想内容に介入することがあるとしても、それは当該原稿の記述が中立・公正の保持及び教育的配慮の観点から、教科書の記述として適切かどうかという限度で審査の対象となるにとどまるものであって、教科書検定制度は、憲法二一条二項にいう「検閲」に該当するものではなく、また、同条一項の規定に違反するものでもないこと、しかし、他方、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような検定制度の運用、例えば、教科書の記述を、誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容のものにするような修正意見を付することは、憲法二六条、一三条の規定に違反すること、国が、教科書検定の目的としてさきに述べた教育上の観点からではなく、特定の立場に立って、これと相容れないと考える学問研究成果を表現した記述を排除するという学問介入自体を目的として教科書検定の審査を行うことは、憲法二三条の規定に違反すること、同様に、国が、教育上の観点からではなく、特定の思想的立場に基づき、不適当と認める思想内容等を表現した記述を排除するという思想審査を目的として教科書検定の審査を行うことは、憲法二一条一項の規定に違反することは、前記第四において判示したところである。

そこで、原告の主張について検討すると、さきに第三において認定した各年度における検定手続の態様、後に第六に認定する被告の検定意見(但し、草莽隊に関する記述に対するものを除く。)の具体的内容及びその当否並びに正誤訂正申請の事実関係、その他本件記録によって窺われる諸事情を勘案しても、本件検定処分(但し、草莽隊に関する記述に対するものを除く。)及び本件正誤訂正手続において、検定関係法令が原告主張の趣旨において又は右の判示に反して憲法又は教育基本法若しくはその趣旨に反して適用ないし運用されたとまで認めるに足りる事情は見出し得ない。また、草莽隊に関する記述に対する検定意見が検定権限を濫用したものとして違法であることは、後に第六において判示するとおりであるが、これについても、文部大臣の付した検定意見が学界の一般的状況の誤認により事実の基礎を欠いたか又は学界の一般的状況や原稿記述の根拠等当然考慮すべき事項を考慮しなかった点において裁量権の範囲を超え又はその濫用があったというにとどまり、それが、教科書記述を誤った知識や一方的な観念を植え付けるような内容のものとする意図の下に付されたり、学問介入ないし思想審査を目的として付されたものであると認めるに足りる証拠はなく、その他本件記録によって窺われる諸事情を勘案しても、右記述に関する検定関係法令の適用又は運用が原告主張の趣旨において違憲な又は教育基本法の趣旨に反したものであったと認めるには足りない。

したがって、この点に関する原告の主張は、採用することができない。

第六本件検定処分における検定権限濫用の違法

一原告の主張の要旨

原告は、本件検定処分ないし検定意見について適用違憲の主張が認められないとしても、本件検定処分ないし検定意見が裁量権を逸脱、濫用したものとして違法であるとし、その理由として次のとおり主張する。

1  教科書検定処分は、国民(教科書著作者や児童・生徒)の学問の自由、教育の自由、学習の自由及び表現の自由を制限する処分であるから、その裁量の範囲は厳格に限定されたものと解しなければならない。また、戦後教育改革は、戦前における教育の国家統制への反省から、中央集権的な教育行政機構を解体して、その地方分権化を図り、機構の地方自治を実現するとともに、戦前における教育行政による権力的支配から教育を解放し、教育の自主性を確立したが、教科書検定制度は、この改革の一環として、戦前ないし戦時中の教科書国定制度を改めるものとして発足したものであって、その趣旨は、民間の創意工夫を尊重し、個性のある多様多彩な教科書の登場に道を開こうとするものであったといえる。更に、検定基準は、多義的で包括的であるが、それだけに、幅広い解釈が可能であり、そこに教科書著作者の広い創意工夫の余地があるのであって、そのもとで多様な教科書記述が許容されるべきである。

2  以上のように、教科書検定処分が国民の権利・自由にかかわる処分であること、教科書検定制度の沿革、趣旨・目的、検定基準の内容に照らせば、文部大臣は、教科書検定権限の行使に当たり、教科書著作者の自主性を尊重する立場に立つべきであり、また、修正意見については、これにより教科書著作者に対し修正意見のとおり原稿記述を修正することを余儀なくし、あるいは検定不合格の理由とされるものである以上、比例原則の見地からみて、文部大臣は、教科書の記述が、教科書著作者の創意工夫や専門的判断に基づき、学問上、教育上相応の根拠を有するときは、非拘束的な指導助言としての改善意見を付することは別として、原則として修正意見を付することは控えるべきであり、修正意見を付し得るのは、検定基準の各条項に照らし、教育的配慮の見地から、あえて当該記述の修正を求めるに足りるだけの格別の強い根拠がある場合に限られるものと解しなければならない。

二当裁判所の総論的判断

1  教科書検定の法的性格

教科書検定の法的性格については、これが文部大臣の検定権限の行使についての裁量の有無及びその範囲についての判断にかかわるものとして当事者間に争いがあるので、裁量権濫用についての検討に先立ち、まず、この点を判断する。

教科書は、さきに第二、一で判示したとおり、学校教育に用いられる主たる教材であって、心身ともに未発達の児童・生徒が使用するものであるとともに、その使用が義務付けられていること、これに伴い、児童・生徒の心身の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列が求められ、その内容において一定の水準、正確性、中立・公正が確保される必要があることなどの点で、一般の図書とは異なる特殊な性質を有する図書であるから、国民は、憲法上出版の自由を保障されることから直ちに教科書をも出版する自由を有しているということはできないのである。もとより、右のような一般の図書とは異なる特殊な性質を有する教科書の制度を採用するか否かは、立法政策の問題であるが、現行の教育関係法令はかかる制度を採用しており、このことが憲法又は教育基本法の各規定に違反するものでないことはさきに第四に判示したとおりである。したがって、検定の申請をもって、国民の有する教科書出版の権利の禁止の解除を求めるものであるとする許可行為説は、採用し得ない。

また、教科書検定は、事柄の性質上、また、本件検定当時の検定基準の内容からみても、行政機関が客観的基準に照らして一義的にその適否を判断するものであるということはできず、確認行為説もまた採り得ない。

そして、既に第二において認定した教科書検定の手続及びその運営からみると、教科書検定は、文部大臣が新規に著作された図書又は既に発行ずみの特定の図書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、高等学校等の学校において教科書として採択を受け使用され得る法律上の資格を設定するか否かを審査決定する行政処分であり、検定合格処分により、右の法律上の資格が設定されるものであるから、その法的性格は、特許行為の一種と解すべきである。もっとも、教科書検定の法的性格が右のとおり解されるからといって、教科書の出版が国の固有の権利であって、検定合格処分はこれを検定申請者に対し分与するものであるとするものではないことはいうまでもないし、教科書検定の法的性格から直ちに文部大臣の検定権限の行使についての裁量の有無及びその範囲についての結論が一義的に導かれるものでもないことに留意すべきである。

2 学校教育法二一条一項が文部大臣に対し教科書検定の権限を付与したものと解すべきであることは、さきに第二、二において判示したとおりであるが、特に文部大臣による検定権限の行使がいかなる程度に法令上覊束されるかを定めた明文の規定は存しない。

検定の対象は、教科書の記述内容等であって、日々進歩する学界の状況を把握した上で当該記述の学問上の適切性、児童・生徒の心身の発達段階や学習の適時性を考慮した上での当該記述の教育上の適切性、教育内容の一定水準が確保されているとともに過不足ない記述となっているかとの観点からの当該教科書の適切性等相互に関連する幾多の考慮事項を含み、その判断は高度の学問的ないし教育的専門性・技術性を持つものであること、その検定基準自体が前述のとおり抽象的、概括的にならざるを得ないので、検定権限について客観的に適正かつ公正な行使をするために、判断の基礎となるべき学界の状況、適切な教育的配慮の在り方等関連諸事項について広く研究すべきものであり、その方策として文部大臣は、教育職員、学識経験者等から成る教科用図書検定調査審議会に諮問して検定処分の判断を行うこととされているものの、この判断については、事柄の性質上、ある程度の見解の相違を来すことも免れないものであることを考慮し、かつ、教科書検定の前記の法的性格に徴すると、文部大臣が教科書検定に当たって付する検定意見ないし合否(条件付処分を含む。)の処分については、文部大臣に右のような理由に対応する裁量権があることを認めざるを得ないのである。

ところで、教育基本法は、前記第一、三2のとおり、憲法において教育の在り方の基本を定めることに代えて、我が国の教育及び教育制度全体を通ずる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであって、一般に教育関係法令は、当該法令に別段の定めがない限り、できる限り教育基本法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように解釈・運用されるべきものと解されることに照らせば、文部大臣の検定権限もまた、同法及び右権限を定めた学校教育法の目的、趣旨に合致するように行使されなければならないのである。そして、教科書検定関係法令として、学校教育法八八条、一〇六条の委任に基づき制定された教科用図書検定規則及び教科用図書検定基準、更に検定基準の実質的内容を構成している学習指導要領、実施細則、内規等が定められているところ、これらの関係法令も、前述のとおり、教育基本法及び学校教育法の目的、趣旨に沿うものと認められるのであるから、結局、文部大臣の検定権限の行使は、その裁量に属するとはいえ、右の教科書検定関係法令の各規定の趣旨に則ってなされなければならないことはいうまでもない。したがって、右権限の行使が右の趣旨に合する合理的範囲にとどまるものである限り、当不当の問題を生ずることはあっても国家賠償法上違法の問題を生ずる余地はないが、右権限の行使が、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったときには、同法上違法となるというべきである。もっとも、法が処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は、各種の処分によって一様ではなく、これに応じて違法とされる場合もそれぞれ異なるから、各処分ごとにこれを検討すべきところ、これを文部大臣の検定権限行使の判断についてみるに、教科書検定が文部大臣の裁量に委ねられる前示の趣旨、目的にかんがみると、文部大臣の検定処分における判断が、その判断の基礎とされた学界の状況等に誤認があることなどにより事実の基礎を欠く場合、学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など当然考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮していること若しくは当該記述の検定基準違反の程度についての文部大臣の評価が明らかに合理性を欠くことなどにより、当該検定処分が社会通念上著しく妥当性を欠く場合、検定権限の行使が検定制度の目的と関係のない目的や動機に基づくものであるときなど裁量の認められた趣旨・目的に違反した場合又は検定権限が恣意的に平等原則に違反して行使された場合は、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして、当該検定処分は、違法となるものと解するのが相当である。そして、裁判所は、文部大臣の検定処分が違法か否かを審理、判断するに当たって、文部大臣の立場に立って、いかなる検定処分をすべきであったかを判断し、その結果と当該検定処分とを比較してこれを論ずべきものではなく、文部大臣の裁量権の行使に基づく検定処分が前示の意味において裁量権の範囲を超え又はその濫用があったと認められるか否かによってこれを審理、判断すべきものである。このことは、文部大臣が個別に付した検定意見についても同様であって、この場合、文部大臣が付した検定意見に対しては、それらが教科書検定関係法令の趣旨に即し、教科書の内容における一定水準の確保、正確性及び中立・公正の保持並びに教育的配慮の観点に基づいて示されたものであって、学界の状況や教育的配慮に照らし文部大臣の検定意見に合理的な根拠があると認められる限り、原則として、裁量権の範囲の踰越ないし濫用による違法があったものとすることはできないというべきである。

もとより、文部大臣は、検定処分当時の学界の状況の客観的認識に基づき、原稿記述の有する学問的根拠ないし教育的配慮も考慮した上で、これを修正すべきか等につき検定意見を付すべきものであるから、裁判所が、検定意見の合理的根拠の有無を判断するに当たっても、検定意見の根拠のみを切り離して検討するのでは足らず、これを原稿記述の根拠との相対的関係において検討して、その合理性を判断しなければならないと解すべきである。したがって、検定意見と原稿記述とがそれぞれ相応の根拠を有する場合には、文部大臣が原稿記述に対し検定意見を付したことが、学界の状況、それぞれの学問的根拠、教育的配慮の合理性等に照らして、社会通念上著しく不当であると認められる場合に初めて、裁量権の濫用による違法があるというべきである。もっとも、教育内容に対する国家的介入は、できるだけ抑制的であることが要請されること、教育基本法一〇条の規定は、教育の自主性尊重の見地から、これに対する不当な支配となることのないようにすべき旨の限定を付しており、国家の介入が許容される目的のために必要かつ相当と認められる範囲に限られることは、さきに第四、一に判示したとおりであり、また、教科書検定が教科書著作者の表現の自由及び学問の自由にかかわるものであること、更に、何をもって中立・公正とみるかを客観的に判定することが困難な場合があり、中立・公正の名のものに検定機関の価値観が検定意見に入り込む危険があることを考えると、文部大臣は、検定権限の行使について慎重であるべきであり、前記のように原稿記述も相応の根拠を有する場合に検定意見を付することには、その妥当性に批判の余地があるといえよう。しかしながら、かかる検定意見も、あくまで教科書内容の一定水準の維持、中立・公正の確保ないし教育的配慮を目的とし、教科書検定関係法令の各規定に従い、さきに述べた裁量審査の基準に反しない限りにおいては認められるというほかないのであり、また、教科書は、教育の主たる教材であるとはいえ、検定意見の付された原稿記述に係る歴史的事実ないし見解を教育現場から完全に排除するという効果まで持つものではないこと等を配慮すると、法的見地からは、右のような場合に検定意見を付することをもって、教育に対する不当な支配に当たり、あるいは教育に対する権力的介入として必要かつ相当な範囲を超えるものとすることはできない。

また、本件各検定処分について文部大臣により付された検定意見には、修正意見及び改善意見の二種があること並びに改善意見の内容については、前記第二、五認定のとおりであって、修正意見が教科書記述に対して権力的介入を行うものであるのに対し、改善意見は指導助言にとどまるものであり、裁判所が文部大臣の付した各検定意見につき、裁量権行使の当否を判定するに当たっても、右に述べた修正意見と改善意見の実質に即した判断をすべきであって、各検定意見の根拠に必要とされる合理性にもおのずから軽重の違いがあるというべきである。但し、改善意見であっても、内閲本審査において教科書調査官がそれに従った修正を執拗に要求し、ことさらに検定審査手続を遅延させるなどの方法により改善意見の域を超えて修正を強制するに至ったものとみるべき場合には、修正意見に準じてこれを判断すべきである。

三昭和五五年度検定における裁量権濫用の違法

1  親鸞及び「日本の侵略」に関する記述について

(一) <証拠>によると、① 三省堂の申請に係る本件教科用図書原稿本(甲第一号証。以下、第三項において「本件原稿」という。)の「法然・親鸞らは朝廷から弾圧をうけたが、親鸞はこれにたいし、堂々と抗議の言を発して屈しなかった。」との本文の記述に対し、文部大臣は、右記述では、親鸞が弾圧を受けた時点で抗議声明をするなど何らかの抗議行動をしたかのように読み取れるが、親鸞がそのような行動をしたというのはどういう学説に基づいて記述されているか分からない、仮に親鸞が教行信証のなかで朝廷を批判した行為をとらえて、「堂々と抗議の言を発して屈しなかった」と記述しているとすれば、教行信証の記述は、後になって親鸞が当時のことを追憶したものであるから、生徒に誤解を与えないよう表現を再検討されたいとして、検定基準(社会科に関するものをいう。以下同じ。)に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)「(1) 本文、問題、資料などの選択及び扱いには、学習指導を進める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこと。」に欠けるとして改善意見を付したこと、② 本件原稿の「中国では、西安事件をきっかけとして、国民政府と共産党の抗日統一戦線が成立し、日本の侵略に対抗して中国の主権を回復しようとする態度が強硬にあらわれてきた。」との本文の記述に対し、文部大臣は、「侵略」という用語は罪悪というはっきりした評価を含む用語であるから、自国の教科書で自国の行為の表現として使用する点は教育的見地から再考されたい、また、本件原稿の他の箇所においては、「列強の中国進出」、「ヨーロッパ列強の中国領土進出」とあり、「日本の中国への武力進出」という表現も二例あるから、「日本の侵略」という記述についても、他の二例のように「武力進出」などと、より客観的な言葉で表記・表現を統一してはどうかとして、検定基準に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容の記述]2(表記・表現)「(3)漢字、仮名遣い、送り仮名、ローマ字つづり、用語、記号などの表記は適切であり、これらに不統一はないこと。」に欠けるとして改善意見を付したことが認められる。

(二) ところが、原告は、文部大臣から右各改善意見が付されたにもかかわらず、これに従った修正に応じなかったことは、さきに第三、一1で判示したとおりであって、右(一)①親鸞及び②「日本の侵略」についての各記述に関しては、原告に損害が発生していると認めることができないことは、後に第七、二において説示するとおりである。

したがって、右各記述に関しては、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由のないことが明らかであるから、文部大臣の検定権限行使の裁量権濫用の違法については判断の限りでない。

2  草莽隊に関する記述について

(一) <証拠>によると、三省堂の申請に係る本件原稿の「朝廷の軍は年貢半減などの方針を示して人民の支持を求め、人民のなかからも草莽隊といわれる義勇軍が徳川征討に進んで参加したが、のちに朝廷方は草莽隊の相楽総三らを『偽官軍』として死刑に処し、年貢半減を実行しなかった。」との本文の記述に対し、文部大臣は、本件原稿記述は、「朝廷の軍」を主語として、これに何らの限定も付していないので、朝廷の軍が全国的に年貢半減を実施する方針を示したにもかかわらず、その方針を実行しなかったように読めるが、草莽隊の一つであって相楽らに率いられた赤報隊については、基礎史料である「赤報記」の史料批判さえ行われておらず、基礎的事実の確定は今後の考察に待つという段階にあって、朝廷が相楽総三に対し年貢半減についての勅諚を与えたにもかかわらず、これを実行しなかったとは断定できず、その他、朝廷の軍が全国的に地域や時間の限定なしに年貢半減の方針を示したという史料はどこにもなく、今日明確に言えることは、征討軍の先鋒隊と称して従軍した相楽総三の率いる赤報隊が旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたというにとどまるのであり、したがって、朝廷の軍が朝廷の政策方針として年貢半減を実施する方針を全国的に示したのに実行しなかったと断定するような原稿記述は、不正確であり、検定基準に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1) 本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに誤りや不正確なところはないこと。」に欠けるものして修正意見を付したことが認められる。

(二) <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 朝廷が相楽総三に対し年貢半減の勅諚を与えたか否かの点を含め年貢半減の方針が朝廷の軍によって採用されたか否か、年貢半減(令)布告の状況等に関する基礎史料として次のようなものがある。

「赤報記」(甲第二一九号証)には、「右両度建白依之於太政官坊城大納言殿ヨリ御渡之勅諚書」「但今度不圖干戈ニ至候義ニ付テハ萬民塗炭之苦モ不少依之是迄幕領之分總テ當年租税半減被仰付候昨年未納之分モ可為同様来巳年以後之処ハ御取調之上御沙汰可被為在候義ニ候間右之旨分明ニ可申付事」とあり、信州大学教授高木俊輔は、これについて史料批判を加え、明治八年以前にはすでにまとめらめていたものであること、その内容は詳細であるとともに維新の政局の全体的動きと対応していること、太政官において筆写の過程で校訂を加えられていること等から極めて信用度の高いものと判断している。昭和五五年度検定に至るまで、赤報記の信用度・正確性について疑問を提起する見解は学界に現れていない。

また、「復古記」(太政官編纂・東京帝国大学蔵版、内外書籍株式会社発行)は、明治政府の正式な出版物として太政官の編纂になるもので、明治元年の戊辰戦争に関する基礎的史料であり、史料の内容の豊かさと正確性において比類のないものとされているが、その「巻一九」(昭和五年、甲第二二三号証)の「明治元年正月一二日」には、次のような綱文(史料から読み取れる事実を要約した文章)がある。「○滋野井公壽、綾小路俊實ノ使者、相良武振書ヲ上リ、官軍ノ徽章ヲ賜ヒ、且東征先鋒ノ命ヲ奉センコトヲ請ヒ、又舊幕府領地ノ租税ヲ減センコトヲ建議ス、乃チ公壽、俊實ニ命シテ、東海道鎭撫使ノ約束ヲ受ケ、又舊幕府領地今年租税ノ半ヲ免セシム。」また、この綱文の後には、「赤報記」「大原重實事蹟書」によるものとして年貢半減令について次の一文が引用されている。「但、今度、不圖干戈ニ至リ候儀ニ付テハ、萬民塗炭之苦モ不少、依之、是迄幕領之分、總テ當年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ可為同様、来巳年以後之處ハ、御取調之上御沙汰可被為在候儀ニ候間、右之旨分明可申聞事。」。

更に、「維新史料綱要」(維新史料編纂事務局編、昭和一三年)は、維新史関係の事件内容とその内容を示す重要史料名を知る上に極めて便利で研究者必携の書といわれるものであるが、その「巻八」(甲第二二四号証の二)の「明治元年正月一二日条」には、相楽総三の年貢半減の建白について次のような綱文がある。「侍從滋野井公壽及前侍從綾小路俊實ノ使者相楽總三、書ヲ上リ、赤報隊ニ官軍ノ徽章ヲ賜ヒ、東征先鋒ノ命ヲ拜センコトヲ請ヒ、又舊幕領地ノ租税ヲ減ジ、民心ヲ収メンコトヲ建議ス。乃チ、公壽・俊實ニ命ジテ東海道鎭撫總督ノ指揮ヲ受ケ、又舊幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシム。大原重實履歴 赤報隊 小寺玉晁戊辰雑記 史談會速記録」。

右の綱文には、相楽総三の建議の相手方や年貢半減令を発令した機関の記載がないことは、被告主張のとおりであるが、他方、「維新史料綱要巻一」(甲第二二四号証の一)の「例言」には、「天皇ノ御言動ヲ記スルニハ、例ヘバ出御・行幸等ノ敬語ヲ用ヒテ、其文ノ主格トシテ天皇ヲ稱スルヲ避ク。朝廷ノ行事・令達ヲ敍スル場合ニモ、同ジク朝廷ノ文字ヲ表ハサズシテ、直ニ其事ヲ記セリ。又朝廷ニ上ル稟請ノ類ヲ敍スル場合ニ於テモ、亦其文ノ目的格トシテ特ニ朝廷ノ文字ヲ表ハスコトナシ。但、朝廷ト幕府トヲ併記スル必要アル場合ニハ、此例ニ據ラズ。」とあり、これによれば、先に挙げた綱文において、相楽總三が「舊幕領ノ租税ヲ減」ずる「コトヲ建議」した相手方は朝廷であり、「舊幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシ」めたものも朝廷であったと解すべきことになるとされている(このことは時野谷滋教科書調査官も、その証言において認めるところである。)。

なお、右認定のとおり、「復古記」「維新史料綱要」のいずれも、明治維新についての基礎的史料であると同時に、「赤報記」等の史料に対する史料批判を加えた上で読み取れる事実についての編者らの認識を綱文として明らかにしたものであって、一般に容易に参照し得るものであるから、これらはいずれも昭和五五年度検定当時の学界の状況を構成するものとみて妨げないものと解される。

(2) 高木教授は、前掲「赤報記」等の史料による研究に基づき、「明治維新草莽運動史」(勁草書房、昭和四九年、甲第二一六号証、乙第八八号証)を著したが、前記(1)の点に関し、概略次のとおりの見解を明らかにしている。

① 相楽総三は、慶応四年(明治元年)正月、綾小路俊実と滋野井公寿の二卿の使者として赤報隊を正式に官軍の一部に認めて欲しい旨の嘆願をした。これに対し、同月一一日に朝廷の太政官議定・参与局から、「義徒」を集めて「皇軍之威光」を輝かすよう励まれたい旨の達書が下された。これは、二卿宛に「義徒」つまり相楽ら草莽を集めた赤報隊を官軍先鋒隊として肯認したことになる。更に、相楽総三は、同一二日、議定・参与局あてに、官軍東征には民心を幕府から切り離す必要がある。そのため、「幕領之分ハ、暫時之間、賦税ヲ軽ク致シ候ハゝ、天威之難有ニ帰嚮シ奉リ」目的を達成できるだろう、とする建白をした。これに対して太政官から、「是迄幕領之分、総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ為可同様」との沙汰が下された。ここに、年貢半減が朝廷の政策として採用されたということができる。これを受けて相楽総三らの赤報隊は、「年貢半減」の布告をしながら進軍していくことになった。ところが、一月下旬には、赤報隊の悪評を理由として隊に帰洛命令が出たが、赤報隊一番隊である相楽隊だけは官軍東征の成功のためには碓氷峠の占拠が絶対に不可欠であると判断し、あえて東山道へ進軍を続け、二月一四日には碓氷峠の占拠を果たした。その後、総督府は、二月一〇日付で信州諸藩宛に、相楽隊を「偽官軍」として取り押さえるよう命じ、相楽を含む幹部八人は、三月三日に下諏訪において処刑された。

② 年貢半減令の布告者は、赤報隊にとどまるものでなく、「復古記」とよばれ、一月一四日には山陽道三藩宛に太政官の名で本年度年貢半減が布告されているし、一月二七日には北陸道でも若狭・越前諸藩宛に北陸道鎮撫総督から布告されている。そのほかの年貢半減令の例としては、「年貢半減令」関係史料表(甲第二二〇号証)記載のとおり、全部で一六例を数えることができる。半減の対象も、旧幕府領のみにとどまるものではなく、「復古記」によれば、山陽道三藩に出された年貢半減令では幕府領とともに「其他賊徒之所領等」とあり、朝廷に刃向かう藩すなわち朝敵藩の領知分にも半減令を実施せよとされており、また、当年の年貢のみにとどまるものではなく、「赤報記」、「復古記」によれば、赤報隊及び山陽道三藩に対するものには「昨年未納之分モ可為同様、来巳年以後之処ハ、御取調之上御沙汰可被為在候」とあり、昨年未納の分についても年貢半減を実施することとされていた。

また、「復古記」によれば、一月一四日の山陽道三藩宛の年貢半減の布告にもかかわらず、一月二七日の朝廷の三道鎮撫使及び関西諸藩に対する命令では年貢半減については触れておらず、疑問に思った岡山藩の伺いに対して「御取消相成候旨御口達有之」として年貢半減令が取消になったことが明らかにされ、また、一月二七日の若狭・越前諸藩宛の年貢半減令にもかかわらず、三月五日の北陸道総督府の加賀・越前・越後諸藩への達書では年貢半減について触れていない。右のとおり正式な取消の形をとらずに年貢半減令の取消がなされていった。

もっとも、前掲「明治維新草莽運動史」には、具体的には、山陽道三藩宛の年貢半減令布告の例が挙げられているにとどまる。

(3) 高木教授の見解以外の学界の状況をみると、以下のとおりである(なお、著者の肩書中には、以前のものも含む。)。

北大教授田中彰は、「日本の歴史24明治維新」(小学館、昭和五一年、甲第二一八号証、乙第九〇号証)において、赤報隊については「作家長谷川伸著『相楽総三とその同志』(昭和一八年刊)が有名だが、最近では新進の維新史研究者高木俊輔著『維新史の再発掘』(昭和四五年刊)、同『明治維新草莽運動史』(昭和四九年刊)が、たんねんな名簿づくりや志士群像の追跡によって、これをうかびあがらせている。」として高木説に高い評価を与えるとともに、「一月一二日、相楽らは年貢半減の建白を新政府首脳に提出、これをいれて新政府は、この日ただちに旧幕領への年貢半減令(前年の未納分も同様)を発した。そして、赤報隊には東海道鎮撫使の指揮をうけることを命じたのである。(中略)だが、これらの隊の背後には、謀略の黒い影がせまっていた。謀略とは何か。相楽らに『偽官軍』のレッテルをはることである。というのも、新政府は一月下旬、年貢半減令を取消していたのだ。財政的にゆるされるはずもないこの半減令を、諸藩からの伺いに対し口頭で取消していたのである。これでは、相楽らがそれを知るよしもない。彼らが半減令で民心をひきつけてすすめばすすむほど、相楽隊は総督府の統制にしたがわない『強盗無頼之党』で、不当に武器をたくわえた『偽官軍』だとされたのである。新政府にとっては、年貢半減令をふりかざす彼らが、『世直し』の潮流をいちだんとはげしくし、それとむすびつくかもしれない、という危惧があったからだ。」としている(なお、既に同人著「体系・日本歴史5 明治国家」(日本評論社、昭和四二年、甲第二二九号証)にも、簡潔ながら相楽総三と赤報隊の顛末につき同趣旨の記述がある。)。

名城大学教授原口清は、「戊辰戦争」(塙書房、昭和三八年、甲第二二六号証、乙第八九号証)において、「政府は、旧幕領の年貢半減(戊辰半減、昨年未納分も同様)を赤報隊に申し渡した。」「年貢半減令は、一月一二日に布告されているが、同一四日、政府が長門・安芸・備前三藩に山陽道三諸藩の向背を問わせ、旧幕領の調査を命じたときには、まだ年貢半減をうたっていた(『復古記』<第一冊>五五七頁)。ところが同月二七日、三道鎮撫使および関西諸藩に命じ、旧幕領の土地台帳を提出させたときには、年貢半減については一言もふれていない。これに対する諸藩からの伺に対しては、口頭で、年貢半減令は取消しになった旨を答えている(章政家記<同上>七四六頁)。つまり正月下旬から年貢半減令は取消しになったのだが、取消しの公然たる布告はなかったのである。北陸道総督の、正月二七日の若狭・越前諸藩宛達書の中には、年貢半減令が含まれているが、これは連絡不便のため、取消しがまだ達しなかったせいであろう。というのも、三月五日に、同総督府の加賀・越中・越後諸藩に対する達書は、年貢半減令はとりのぞかれているからである。しかし、奥羽・北陸地方で戦況が困難をきわめると、政府軍は年貢半減の布達をしばしば行なっている。たとえば、六月に北陸道副総督四条隆平は在越の会津・桑名領の年貢半減を布達し、平潟口でも八月に田租の全免あるいは半減令を下し、越後口でも八月に全免令をだしている。」としている。また、原口教授は、「日本近代国家の形成」(岩波書店、昭和四三年、甲第二二七号証)においても、「草莽隊は、総督府の指揮下に従順に行動したものは僅少の酬いを得たが、独自性が強くて積極的に活動し、年貢半減令のように新政府が当初にはかかげ、のちには否定したものを依然として宣伝するなど、新政府・総督府の方針と対立したものは、多くの無実の罪状をつくりあげられ弾圧された。」としている。

また、横浜市立大学教授遠山茂樹は、「国民の歴史19 明治維新」(文英堂、昭和四四年、甲第二二八号証)において、「王政復古成立当初の京都政府が、『旧弊御一洗』『百事御一新』『万民の塗炭の苦を救わん』と布告し、軍隊進撃の沿道に、年来の苛政に苦んでいるものは遠慮なく本陣に訴え出よと令し、幕府領の年貢半減を通達したことは、民心をひきつける上で、大きな効果をあげることとなった。(中略)京都政府は、軍事上から一月十二日年貢半減を命じたが、この月の下旬には早くも財政難から半減をとりけさなければならなかった。(中略)京都政府は一揆の味方ではないという方針をあきらかにする必要があった。それなのに勝手に年貢半減を布告し、困窮者には救助すると約束してまわる赤報隊の存在は迷惑であった。そこで、『偽官軍』の名で、抹殺してしまったのであった。」としている。

更に、「幕末維新人名事典」(奈良本辰也監修、學藝書林、昭和五三年、乙第九二号証)の「相楽総三」の項(師岡担当部分)においては、「同日、租税軽減を建白、容れられて幕府領の租税半減をゆるされ、通過の村村で実施。」とされている。

そして、本件検定当時までに高木教授らの前記見解を否定する学説が文献等に発表されたことはなかった。

(4) これに対し、昭和音楽大学教授勝部真長は、次のような見解をもっている。

慶応四年正月ころの朝廷は流動的であって、はたして赤報隊が官軍として承認されたといえるか、また、朝廷が年貢半減令を正式な政策として採用したといえるか疑問である。なるほど、「赤報記」は、赤報隊のことを知るには第一の文献であるが、著者が不明で原本も失われていること、太政官に於ては「坊城大納言」より「勅諚書」を受けたとする部分があるものの、当時坊城大納言という人物は存在しないこと、「史談速記録第七八輯」(編集・史談会、明治三二年、乙第一五〇号証)では、油川信近の談話として「議定・参与」より「御達書」を受けたとされており、赤報記の記述とは差異があることなどから、「赤報記」により直ちに勅諚があったといえるか疑問である。むしろ、年貢半減は、朝廷の全国的な政策ではなく、当時太政官参与であった西郷隆盛の個人的な軍略であったと考えられる。また、相楽総三は、伊牟田尚平と益満休之助とともに薩摩藩の計略であった関東攪乱の実行者であったが、相楽総三が処刑されたのは、関東攪乱の証拠隠滅をもくろんだ西郷隆盛の謀略によるものであって、年貢半減の取消に起因するものであるとはいえない。

しかしながら、同証人は、右見解を、これまで発表したことはなく(したがって、学界での評価又は批判を受けたこともなく)、これをもって昭和五五年度検定当時の学界の状況を構成する一見解とみることはできない。したがって、同証人の見解をもって、検定意見を基礎付けるものとはなし得ないといわざるを得ない。

(5) 以上によれば、昭和五五年度検定当時の学界の状況としては、朝廷が、相楽総三の建白を容れて年貢半減をその政策として採用し、相楽総三らにその布告を許しながら、後にこれを取り消して相楽総三らを死刑に処したとする高木教授の説と同趣旨の見解を述べ、あるいはこれを支持するもの(右取消の理由はともかくとして)があるのみで、高木説に反対しあるいはその根拠となる史料を批判する見解は現れていないことが認められる。また、年貢半減令が出された事例が幾つか報告され、かつその事例がかなり広い範囲に及んでいるということが学界の認識であったことは、被告においても認めるところである。

(三) 右に認定した事実に照らせば、基礎史料である「赤報記」の史料批判さえ行われておらず、基礎的事実の確定は今後の考察に待つという段階にあり、今日明確に言えることは征東軍の先鋒隊と称して従軍した相楽総三の率いる赤報隊が旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたというにとどまる、という検定理由は、いまだ学界に現れていない教科書調査官の個人的見解に根拠を有するにとどまり、昭和五五年度検定当時の学界においては右検定理由に沿う見解は存しなかったというほかない。そして、本件検定意見は、原稿記述が検定基準に照らし正確性に欠けるとする修正意見であり、修正意見に従った修正が加えられた結果、内閲本審査合格後の記述は、「徳川氏追討の軍には、人民のなかから草莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札に掲げて人民の支持を求めたが、朝廷方は進軍途中の相楽らを『偽官軍』として死刑に処した。年貢半減は、実行されず……」となったのであるが(内閲本審査合格後の記述については当事者間に争いがない。)、この記述では、赤報隊が官軍先鋒隊として認められたもので、年貢半減の高札が朝廷の勅諚に基づくものであるとする昭和五五年度検定当時の学界の一般的な見解にかえって沿わない結果となっているといわざるをえない。

右のとおり、本件検定理由が学界に現れていない教科書調査官の個人的見解に基づくにとどまり、検定当時の学界ではこれに沿う見解は表明されていなかったこと、本件検定意見が修正意見であること、検定意見を付してこれに沿った修正を強制したことによりかえって検定当時の学界の一般的見解に反する記述をもたらす結果となったことを合わせ考えるときは、本件検定意見に合理的根拠があったとすることはできず、文部大臣が、検定基準の前記正確性(1)の観点から修正意見を付したことは、学界の状況の誤認により事実の基礎を欠いたか又は学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など当然考慮すべき事項を考慮しなかったものであって、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものといわざるをえないのである。

なるほど、検定理由が、原稿記述に「朝廷の軍は年貢半減を示して……年貢半減を実行しなかった。」とあることから、朝廷の軍が全国的に年貢半減を実施する方針を示したにもかかわらず、その方針を実行しなかったように読めるとする点については、かかる読み方自体があり得ないではないし、「維新史料綱要」の綱文では「舊幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシム。」とされている(「復古記」もこれと同旨)ことから、この範囲では検定意見にそれなりの根拠があったといえないではないが、検定意見はこれにとどまるものではなく、赤報隊が官軍先鋒隊として認められ、年貢半減の高札が朝廷の勅諚に基づくものであるとする学界の一般的見解に基づく記述部分に対してもこれを不正確とし、その修正を強制するものであり、この点に合理的根拠があるとはし得ない以上、文部大臣が検定意見を付したことが裁量権の範囲を超えたものであるとの結論を左右するものではない。

ちなみに、<証拠>によれば、昭和六一年度検定においては、前記「新日本史」の本件原稿記述と同じ箇所につき、「徳川氏追討の軍には、人民のなかから草莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札をかかげて人民の支持を求めた。朝廷方は、赤報隊の措置を許したほかにも、長門・安芸・備前3藩にも同じ方針を示した。しかし、いずれも取り消され、進軍途中の相楽らは『偽官軍』として処刑された。」との改訂申請に係る記述が合格本として採用されていることが認められるところ、右記述は、相楽の率いる赤報隊が、旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたということを表すにとどまらず、赤報隊が少なくとも右措置につき朝廷方から許可を得ていたことを前提にしているものとみるほかなく、文部大臣は、時点が異なるとはいえ、同じ問題について本件検定意見を後に重要な点で変更したものというべきであろう。

3  南京事件に関する記述について

(一) <証拠>によると、本件原稿の脚注「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍を殺害した。南京大虐殺(アトロシテイー)とよばれる。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は南京事件が南京占領直後に軍の命令により日本軍が組織的に行った殺害行為であるかのように読み取れるが、南京事件についての研究の現状からみて、「南京占領直後」という発生時期の点及び「軍の命令により日本軍が組織的に行った」という態様の点において、いずれもこのように断定することはできないので、検定基準に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1) 本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに誤りや不正確なところはないこと。」及び「(3) 一面的な見解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりするところはないこと。」に欠けるとして修正意見を付したことが認められる。

原告は、時野谷滋教科書調査官が理由告知の際に告知した理由においては、本件原稿記述が軍の命令によって行われたものであると読み取れるということは問題とされていなかったにもかかわらず、本件訴訟において、被告は検定理由の主張を変更したものであると主張する。なるほど、前掲甲第一二号証によれば、時野谷滋教科書調査官が理由告知の際には軍の命令によって行われたものであると読み取れることとを指摘していないことが認められるが、証人時谷滋の証言及び弁論の全趣旨によれば、「軍の命令によって行われたと読み取れる」という主張は、「日本軍が組織的に行ったものと読み取れる」という趣旨をふえんしたものであることが認められるから、被告が検定理由についての主張を変更したものとはいうことはできない。

なお、検定意見が、南京事件そのものの存在を否定する趣旨ではないことは、教科書調査官が理由告知の際に「南京占領の混乱の中で多数の中国軍民が犠牲になった」ことは事実であることを認めていることから明らかである。

(二) <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 一橋大学教授藤原彰は、その研究に基づき、南京大虐殺は軍上層部の命令による日本軍の組織的犯行であり、混乱の中で起きたものではないとの見解を有しているが、その見解の詳細と根拠は、以下のとおりである。

① 南京大虐殺は日本軍の組織的犯行であることについて

昭和五五年度検定当時においても、極東国際軍事裁判の記録、後に(3)に挙げる洞富雄の著作及び洞富雄編「日中戦争史資料」、防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書(支那事変陸軍作戦)」、当事者の体験記などから、南京大虐殺が日本軍の組織的行為であったということができる。

日中戦争開始直後の昭和一二年八月五日、陸軍次官は、支那駐屯軍参謀長宛に陸支密一九八号「交戦法規ノ適用ニ関スル件」を通牒し、「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」とし、国際法に拘泥することなく行動せよといい、さらに「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用)」などは避けるよう指示しているのであるが、国際法に拘泥せず、さらに俘虜の名称を使うなということは、捕虜を作るな、捕虜は処分せよという通牒として理解されたであろう。また、極東国際軍事裁判の法廷で武藤章は、「中国ノ戦争ハ公ニ『事変』トシテ知ラレテヰマスノデ、中国人ノ捕ヘラレタ者ハ俘虜トシテ取扱ハナイトイフ事ガ決定サレマシタ」と証言している(「極東国際軍事裁判速記録」第四四号・昭和二一年八月八日証言)。このように軍中央部の方針は「捕虜にはしない」と理解された。

佐々木到一少将の指揮する第一六師団歩兵第三〇旅団は、「旅団は本一四日南京北部城内及城外を徹底的に掃蕩せんとす」とし、更に「各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず」(歩兵第三八聯隊の「昭和一二年一二月一四日南京城内戦闘詳報第一二号」)とする旅団命令を出している。それにもかかわらずこの戦闘詳報第一二号の付表には、「俘虜(将校七〇、下士官兵七一三〇)」とあり、多くの捕虜を抱え込んだ事実を示している。また、同じ、佐々木旅団長指揮下の歩兵第三三聯隊の「南京付近戦闘詳報」では、「自昭和一二年一二月一〇日至昭和一二年一二月一四日歩兵第三三聯隊鹵獲表」に「俘虜将校一四、准士官下士官兵三〇八二」と記し、「俘虜は処断す」と記している。また「敵の遺棄死体(概数)」の項では、「一二月一〇日二二〇、一一日三七〇、一二日七四〇、一三日五五〇〇、以上四日計六八三〇」とし、「備考、一二月一三日の分は処決せし敗残兵を含む」とある。これらの記述は旅団命令として捕虜を受け付けず、捕虜が出た場合は「処断」すなわち集団虐殺したことを示している。

右のとおり、捕虜の集団虐殺は、捕虜を捕虜として扱わないという軍中央部の指示や、捕虜を作るなという軍の命令によって行われたものであって、軍の正規の命令系統の下で組織的に行われたものである。

次に、南京攻略は、日本軍による典型的な包囲殲滅戦であり、戦闘の帰趨は日本軍の完全な勝利に決定していたにもかかわらず、日本軍は、現場で投降を勧告することもほとんどないままに、無力の敗残兵も追撃し、その大多数を殺害した。これは、戦闘行動の名に値しない一方的で非人道的な殺戮であった。同時に、敗走する中国軍将兵とともに多数の中国人難民も日本軍の掃射の対象となった。また、南京占領時に「便衣兵」として連行され殺害された中国将校は、戦闘意識を完全に消失し、武器と軍服を捨てて便衣を身につけて難民区に潜伏した者であるから、便衣兵狩りも正規の戦闘行為とはいえない。更に、日本軍による便衣兵の認定は、極めて主観的なもので、多数の一般市民が「便衣兵」と誤認され処刑された。右の敗残兵殲滅及び「便衣兵」狩りは、南京城内掃蕩という任務として軍の基本的組織も維持したまま行われたのである。

そのほか、南京城内に突入した日本軍が、各所で不必要な放火、大規模な略奪、強姦を繰り返したばかりでなく、確たる理由もなく一般市民を虐殺していることは、「ニューヨーク・タイムズ」紙南京特派員F・テイルマン・ダーディンの報道(甲第二四三号証)、エドガー・スノー著「アジアの戦争」、極東国際軍事裁判の記録等から明らかである。もっとも、日本軍が組織的に一般市民を殺害せよとの命令を出したわけではないが、市民に対する殺害が起こったのは、敗残兵狩りないし徴発という軍隊の単位としての行動中のことであり、軍幹部はこれを取締ることなく放置していたのであるから、日本軍の組織的行為であると考えて差し支えない。

② 南京大虐殺が混乱の中の出来事ではないことについて

日本軍が南京を占領した昭和一二年一二月一三日には、中国軍の組織的抵抗は、基本的には終わっていた。したがって、占領が混乱の中で行われることはなく、同月一七日の入城式も何の混乱もなく実施できた。それにもかかわらず、捕虜の虐殺、「便衣兵狩り」などの蛮行は、昭和一三年一月末まで続けられている。この事実は、南京での蛮行が「混乱の中」で起きたものではないことを示している。

以上のほか、藤原教授は、「証言による南京戦史(最終回)」(「偕行」昭和六〇年三月号所収、甲第二五一号証)、「南京攻略戦『中国第十六師団長日記』」(「増刊歴史と人物」所収、中央公論社、昭和五九年、甲第二三七号証)を日本軍の組織的犯行と判断される根拠として挙げるが、これらはいずれも、本件検定以後に出版されたものであるから、昭和五五年度検定当時の学界の状況を構成するものとしては考慮し得ない。

(2) これに対し、戦史研究家児島襄は、昭和五五年度検定当時の南京事件に関する研究状況からみて、南京占領下の軍政として中国の軍人と民間人を殺害するという方針が確立し、これに基づいて軍の命令による殺害が組織的に行われたと断定することはできなかったと判断している。その見解の詳細と根拠は、以下のとおりである。

南京事件に直接関係する史料は非常に少なく、戦闘に関するもの以外としては、国民党の首都地方法院首席検察官陳光廣の報告書、南京安全区国際委員会の記録が中心であり、日本側のものとしては、戦闘詳報、戦陣日誌がある。

戦闘詳報の中には、「午後二時零分、聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク。左記 イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ。其ノ方法ハ十数名ヲ捕虜シ逐次銃殺シテハ如何。」というものが残されているが、この戦闘詳報の部隊名は不明であり、記述の中にある旅団名もわからない。したがって、命令自体が、旅団の独断命令であるのか、それとも、上級の師団、軍、方面軍からの下令であったのかも、判然としない。もっとも、第一三師団第一〇三旅団長山田少将が、師団司令部及び上海派遣軍司令部に問い合わせて、「始末せよ」との指示を受けていることからすると、前記戦闘詳報が伝える捕虜刺殺の旅団命令も、更に上級司令部からの下令であり、また、広範囲に下達されたものとみられる。しかし、実際に、その命令が確実に実行され組織的に行われたかについては、疑問があるし、具体的な命令の内容が「殺せ」ということだったのか、それとも「処分せよ」という命令(「処分」には「釈放」も含む。)を「殺せ」と解釈して実行したのかは、資料が不足していて不明である。

また、陳光廣の前記報告書は、被虐殺者総数を三九万一七八五人としているが、他方、南京安全区国際委員会の前記報告が記録する日本軍の暴状は、ほとんどが強姦と略奪に関するものであり、昭和一二年一二月一二日から同月一八日までの間に、委員会が耳にした日本軍によって殺された中国人の数は僅かであったとされ、陳光廣の報告書に適合するような記録は、南京安全区国際委員会の報告の中には見出すことができない。

中支那方面軍司令官松井石根大将は、昭和一二年一二月九日、南京攻略の下令につけ加えて友軍相撃、外国権益の損壊、掠奪、放火又は失火などの不祥事の発生を防止するよう厳重な注意をしており、また、後に日本将兵の不祥事を聞知し泣いて将兵を叱責するとともに、遺憾の意を表明したのであり、捕虜殺害の命令は右の注意等と矛盾するものであって、中支那方面軍司令官の命令があったとは考えられない。また、第十軍司令官柳川平助中将も、同年一一月一七日、婦女暴行、金品強奪の犯行は、皇軍の威武をけがすものであるとして、「隷下将兵克ク自省自戒シ、軍紀厳正益々士気ヲ振起シ、各々其ノ任務ニ邁進スベシ」との訓示を下達していることからも、同様に考えられる。

以上のとおり、昭和五五年度検定当時において、南京事件の正確な実態を客観的資料で明らかにすることは困難であって、捕虜を虐殺するという方針が日本軍において確定し、組織的に行われたと断定することはできなかった。

また、南京攻略に至る戦闘は、中国側の軍民合わせた強い戦意と抵抗に遭い、日本軍にとって苦戦の連続であり、当時の日本軍各部隊は、いずれも敵愾心と恐怖心に身をこわばらせていた。他方、中国軍側は、南京を放棄して更に奥地で戦いを続けるが、南京でもできるだけ抵抗を続けることとする方針を採っており、蒋介石に続き首都衛戊司令官唐生智が昭和一二年一二月一二日に首都放棄命令を発して南京から脱出すると、南京市内は無政府状態となり、中国軍は指揮命令系統を失い、あるものは「便衣」に着替えたり、またあるものは武器を捨てて脱出しようとしたが、このような敗残兵や避難民の流出入に伴う騒乱状態などによって極度の混乱状態に陥った。このような混乱状態の中で、掃蕩戦の段階などで、一部の日本兵が民間人を殺害したことは事実であるが、昭和五五年度検定当時、その実態が正確に把握されていたとはいい難く、日本軍が組織として民間人に襲い掛かったと断定する史料は存在しなかった。

更に、敗残兵による抵抗が続いていたために、南京城内の安全確保のため、掃蕩戦も長期に及び徹底的に行わなければならなかったが、敗残兵及び便衣兵は、投降兵と区別すべきで、決して無抵抗であったものではなく、むしろ戦意旺盛であったと記録されており、したがって、敗残兵及び便衣兵に対し全くの無抵抗の状況で一方的に殺害行為が行われたものではない。

(3) 昭和五五年度検定までの学界の状況についてみると、藤原教授は、極東国際軍事裁判において事件の全貌がはじめて明らかにされ、エドガー・スノー著「アジアの戦争」、歴史学研究会「太平洋戦争史」(昭和二九年)、洞富雄著「近代戦史の謎」(昭和四二年)、家永三郎著「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の一)などの著作が南京事件に触れていたところ、本多勝一著「中国の旅」(朝日新聞社、昭和四七年、甲第二三一号証)、洞富雄著「南京事件」(昭和四七年、後記「決定版南京大虐殺」に収載)、洞富雄編「日中戦争史料8南京事件Ⅰ」「日中戦争史資料9 南京事件Ⅱ」(河出書房新社、昭和四八年)、洞富雄著「まぼろし化工作批判・南京大虐殺」(昭和五一年、後記「決定版南京大虐殺」に収載)などの著作により南京事件の研究が大きく進んだとしている。他方、洞、本多らの研究に対し、否定的な見解を示すものとしては、鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」(文藝春秋社、昭和四八年)、山本七平著「私の中の日本軍」(文藝春秋社、昭和五〇年)があった。

なお、藤原教授は、昭和五七年以降南京大虐殺に関する研究が急速に進んだとして、洞富雄著「決定版南京大虐殺」(徳間書店、昭和五七年、甲第二四四号証)、本多勝一著「南京への道」(「朝日ジャーナル」所収、昭和五九年、甲第二三二号証)、藤原彰著「南京大虐殺」(岩波書店、昭和六〇年、甲第二五〇号証)、吉田裕著「天皇の軍隊と南京事件」(青木書店、昭和六一年、甲第二四六号証)、洞富雄著「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社、昭和六一年、甲第二四七号証)、秦郁彦著「南京事件―『虐殺』の構造」(中央公論社、昭和六一年、甲第二四八号証)、洞富雄著ほか「南京事件を考える」(大月書店、昭和六二年、甲第二四九号証)を挙げるが、これらはいずれも昭和五五年以降に出版されたものであるから、本件検定当時の学界を構成するものとしては考慮し得ないことは、さきに(1)に判示したとおりである(但し、昭和五五年度検定当時に発表されていた論稿を収載した部分を除く。)。

(三) 本件原稿記述が、「日本軍は首都南京その他の主要都市や主要鉄道沿線などを占領し4、中国全土に戦線をひろげたが、」という記述の脚注4として付されたものであることにかんがみれば、本件原稿記述が、南京占領直後に日本軍が組織的に中国軍民を殺害したように読める、との検定理由にも合理的根拠があるといわざるを得ない。

他方、昭和五五年度検定当時の学界の状況をみると、前記(二)認定の事実にかんがみれば、当時、日本軍が軍の命令によって組織的に中国軍捕虜や民間人を虐殺したものであるとする見解も既に有力に主張されており、これに沿う史料も現れてきていたということができ、右事実に照らせば、原告の本件記述には相当の理由があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている原稿記述に対し、修正意見を付することについては、その妥当性について批判の余地のあるところであろう。しかしながら、当時、中国軍民を殺害したことが、日本軍の組織的犯行であると断定することには慎重な見解も少なからずあったこと(これら両説の優劣については、当裁判所のよく判断し得るところではない。)、文部大臣の検定意見も、日本兵によって残虐行為が広く行われたことを否定するものではなく、それが日本軍の命令によって行われた組織的行為であった点について昭和五五年当時にあらわれた史料に基づいてはこのように断定することができないとする趣旨であったことにかんがみれば、文部大臣が検定基準の前記正確性(1)及び(3)の観点から修正意見を付したことをもって直ちに合理的根拠を欠き社会通念上著しく不当なものであったとすることはできない。

(四) ところで、原告は、本件原稿記述は、昭和五一年の申請に係る改訂検定(以下「昭和五一年度検定」という。)の際に問題とされることなく合格したものであり、更に、昭和五八年度の改訂検定の際には「日本軍は……殺害し……」という同様の記述は、そのまま合格しているのであるから、本件検定意見は、一貫性を欠く恣意的なものであり、検定権限を濫用するもので違法である旨主張する。

<証拠>によると、昭和五五年度検定(新規検定)における本件原稿記述は、昭和五一年度検定(改訂検定)の際に新たに書き加えられた記述であるが、同検定においては改善意見も付されることなく原稿記述がそのまま合格したにもかかわらず、昭和五五年度検定においては、さきに(一)に認定したとおりの理由による修正意見が付されたこと、昭和五八年度検定は、昭和五五年度検定の合格本の記述、すなわち、「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。」との記述を、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。」との記述に書き換えようとしてした改訂申請についてのものであるが、昭和五八年度検定(改訂検定)においては、後記四2(一)のとおり、右原稿本の記述のうち、「日本軍将兵の……少なくなかった」の箇所についてのみ修正意見が付され、「日本軍は、……殺害し」の記述には何らの検定意見も付されず、結局、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには暴行や略奪などをおこなうものが少なくなかった。」との記述が合格本として採用されたこと、右の三回の検定は、いずれも同一の教科書調査官の担当であったことが認められ、日本軍による中国軍民殺害の記述につき、右各検定は、その対応において首尾一貫していないと受け取られる面のあることは否定できない。

しかしながら、本件原稿記述についての昭和五五年度検定は、右の他の二度の検定がいずれも改訂検定であるのに対し、新学習指導要領の施行を前提としたいわゆる新規検定であって、従来の教科書記述を根本的かつ全面的に見直したものに対してされたもので、より慎重にされるべき性質のものであり、したがって、さきに第二、五2において判示したとおり、その審査の方法も、いわゆる白表紙本によって行われるもので、審査の公正が担保される仕組になっており、改訂検定の場合と異なること、現に昭和五五年度検定の際には、昭和五一年度検定のときに比し、本件原稿記述に係る問題についての調査も一層進展していたこと、さきに(三)において判示したとおり、本件修正意見は、その理由自体に合理性があること、昭和五八年度検定の原稿記述(その合格本の記述も同じ。)においては、日本軍による中国軍民の殺害は南京占領の「さい、」されたものであるとされているのに対して、本件原稿記述においては、それは南京占領「直後」にされたものとなっているほか、前者においては、日本軍による中国軍民殺害の事実とともにそれ以外の事実の記載があるのに対して、後者においては、右殺害の事実のみが記載されていて、本件原稿記述は全体として、右殺害についての日本軍による組織行為的性格がより強調して印象付けられる体裁になっており、両者は必ずしも同一の記述とはいえないこと、さきに第一、三2(三)において判示したとおり、昭和五八年度検定に先立つ昭和五七年に、社会科の検定基準の必要条件として、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」との基準が新たに追加され、検定制度を取り巻く事情に変化がみられたこと、昭和五八年度検定においては、前記第一、三2(三)のような事情の下で昭和五五年度検定の場合のように例えば「混乱の中で」との語句の挿入を求めることが中国軍民の殺害を正当化するような誤解を生ずる虞もあったため、そのような意見を付することは止めたことの各事実が認められ、これらの点を総合勘案すると、文部大臣が、昭和五一年度及び昭和五八年度の各検定の場合には検定意見を付さなかったにもかかわらず、本件検定においては、右二度の検定の場合と同一かほぼ同一内容の本件原稿記述に対して修正意見を付したとしても、これをもって、直ちに、一貫性に欠ける恣意的な行政行為として、裁量の範囲を超え又はこれを濫用した違法なものと断ずることはできない。

四昭和五八年度検定における裁量権濫用の違法

1  朝鮮人民の反日抵抗に関する記述について

(一) <証拠>によると、昭和五五年度検定済教科書の「一八九四(明治二七)年、朝鮮に東学党の乱がおこると両国は出兵したが、乱鎮定後の内政をめぐって両国の関係はさらに悪化し、同年八月ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいた。」という記述を、「一八九四(明治二七)年、ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいたため、戦場となった朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている。」と書き換えようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、右記述のうち、「朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている。」という箇所は何を指しているのか明らかでない、もし、「反日抵抗」がいわゆる東学の乱の再挙について述べたものではないとするならば、著者のいう「反日抵抗」がたびたび起こったということは、高度な学術的研究の成果に基づくものであるとしても、まだ学界に紹介されていない一説といわざるを得ないので、高校教師にとっても理解困難であり、授業に利用し得る事柄ではないし、もし、右の「反日抵抗」が東学の乱の再挙について述べたものであるとするならば、いわゆる東学の乱の初発を記述しないで再挙のみを記述するのは生徒に混乱を与える結果となるというものであり、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(1) 本文、問題、資料などの選択及び扱いには、学習指導を進める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこと。」に欠けるとして修正意見を付したことが認められる。

なお、原告は、本件検定意見は、日清戦争の侵略戦争としての側面を教科書に反映させたくないとの意図から出たものであり、修正意見に従った修正を加えたことにより、朝鮮人民が反日抵抗に立ち上がったという歴史的事実が歪められたと主張するが、検定意見が、朝鮮人民の反日抵抗の事実を否定する趣旨ではなく、また、朝鮮人民の反日抵抗についての記述の削除を求めるものではないことは、前掲甲第一七号証から明らかに認められ、右主張は失当である。

(二) <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 奈良女子大学教授中塚明は、その研究に基づき、「日清戦争の研究」(青木書店、昭和四三年、甲第一八五号証、乙第五五号証)を著したが、その中で、「朝鮮人民は、このように日本軍にたいする非協力という消極的な抵抗を試みただけではない。さらに武器をとって積極的に日本軍に反抗した。甲午農民戦争の秋の蜂起がそれである。……東学の指導者たちのあいだには、暴力を拒否し、武装蜂起に反対する者もあって、農民軍の再挙を妨げたが、しかし農民のあいだの反日の気運はおさえられるものではなかった。一八九四年の秋にはいると、公然たる抗日武装闘争が各地にひろまり、伝統的に農民反乱の激化地帯であった慶尚・全羅・忠清の三南地方はもとより、京畿・江原・黄海・平安の各道でも、日本軍があいついで朝鮮農民に襲撃されるという事態がおこった。そして日本軍はその鎮圧のため軍事行動を余儀なくさせられるようになった。」「全琫準を指揮者とする農民軍の主力は、公州を攻撃したが、日本軍のはげしい反撃にあって敗北し、農民軍は混乱して各地に分散してしまった。しかし、もともとこの甲午農民戦争の秋の蜂起は、東学の教門によって統一的に指導されていたというよりも、地域別に各地の指導者にひきいられておこったものであった。」「この甲午農民戦争の秋の蜂起(九月起包といわれる)は、明らかにこの年の春の農民蜂起をふくめての、従来のそれとは性質を異にしていた。この年の春の蜂起は李朝末期の紊乱と封建的支配者の苛酷な搾取にたいする反乱であったのにたいし、この秋の再蜂起は、明らかに日本の軍事的な侵略に反対することが主な動機となっていた。」とし、また、「万有百科大事典6」(小学館、昭和四九年、甲第一八八号証)の「日清戦争」及び「東学党の乱」の項においても同旨を述べ、甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)においては、従来東学党の乱の再挙と呼ばれてきた全琫準の指導による蜂起以外に各地で起こされた農民らの反日抵抗が重要であったこと、甲午農民戦争の春の蜂起と秋の蜂起とではその性格を異にし、春の蜂起が主に朝鮮の封建支配階級に向けられたものであったのに対し、秋の蜂起は、日本の侵略に対する朝鮮人民の民族解放闘争という性格を有していたことを明らかにした。

また、中塚教授は、朝鮮人民の反日抵抗を教科書に記述する教育的意義について、日清戦争を日本の近代化という側面からだけ教えるのではなく、それが一方で朝鮮に対する侵略戦争であったことを教えることが必要であり、日清戦争をこのような歴史的位置付けのもとに考察しようとすれば、日本への従属の深まりに対して朝鮮人民の動向がどうであったかを生徒に考えさせることが近隣諸国に対する国際的な理解を進める上でも重要であるとしている。

(2) 中塚教授の見解に対する学界の状況

前掲「日清戦争の研究」は、「日本史研究」第九九号(日本史研究会、昭和四三年、甲第一九五号証)において京都大学人文学研究所助手(現京都府立大学助教授)井口和起から、「史林」第五一巻第四号(史学研究会、昭和四三年、甲第一九六号証)において現花園大学教授姜在彦からそれぞれ高い評価を受けており、朝鮮史研究会編「新朝鮮史入門」(龍渓書舎、昭和五六年、甲第一九三号証)、中村道雄外編「世界史のための文献案内」(山川出版社、昭和五七年、甲第一九四号証)、「日本の歴史26 日清・日露付録『月報26』」(小学館、昭和五一年、甲第二〇一号証)においても、日清戦争に関する基本的文献の一つとして掲げられている。

また、上智大学教授藤村道生は、「日清戦争」(岩波書店、昭和四八年、甲第一九〇号証、乙第五七号証)において、姜教授は、「甲午農民戦争」(岩波書店、岩波講座「世界歴史22」所収、昭和四四年、甲第一八七号証)において、日清戦争及び甲午農民戦争の性格について、中塚教授と同様の見解を明らかにしている。

更に、都留文科大学講師(現熊本商科大学教授)朴宗根は、その後、日清戦争中の朝鮮人民の動向を詳細に研究し、「日清戦争と朝鮮」(青木書店、昭和五七年一二月、甲第一八六号証、乙第六九号証)を著したが、同書において、日清戦争開始後の朝鮮人民の反日抵抗を大別して、第二次農民戦争以前の散発的な抵抗運動ないしは義兵運動、第二次農民戦争、第二次農民戦争後の反日抵抗のそれぞれに分け、第二次農民戦争(甲午農民戦争の秋の蜂起)以外にも多様な反日抵抗が存在したことを明らかにしている。右の「日清戦争と朝鮮」は、「日本史研究」第二五一号(日本史研究会、昭和五八年七月、甲第一九七号証)に中塚教授から高い評価を受けている(なお、同書は、その後、「専修人文論集」第三二号(専修大学学会、昭和五九年、甲第一九八号証)において専修大学教授矢澤康祐から、「歴史評論」第四一〇号(昭和五九年、甲第一九九号証)において趙景達からそれぞれ高い評価を受けたが、いずれも本件検定後のものであるから、考慮し得ない。)。もっとも、朴教授自身、右「日清戦争と朝鮮」において「この九四、九五年の反日蜂起のなかで、従来は全琫準らの第二次農民戦争を高く評価するあまりに、京釜、京義路と、江原道、普州、左水営地方の蜂起がなおざりにされてきたきらいがある(史料的制約にもよるが)。全琫準らの闘争を高く評価することについて異論はないが、私は、それ以外の広範な地域における多様な形態で展開された蜂起を見なおす必要があると考えている。」と述べ、第二次農民戦争(甲午農民戦争の秋の蜂起)が反日抵抗の中心であることを指摘するとともに、それ以外の反日抵抗については昭和五七年頃の学界においても研究が十分でなかったことを指摘している。

ところで、甲午農民戦争は、東学教徒ではない貧民たちがむしろ主力となっており、単なる宗教的な反乱ではなく、反封建的・反侵略的民族的性格を持つものであるから、「東学党の乱」という呼称自体適切ではないし、また、全琫準を指導者とする蜂起を東学党の乱と呼ぶとしても、甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)には、従来東学党の乱の再挙と呼ばれた全琫準の指導者とする蜂起以外に各地での農民らの反日抵抗があったこと、これらを含めて東学党の乱の再挙と総称するときは、これを単なる宗教戦争と誤解させ、日本の侵略に対する朝鮮人民の民族解放闘争という秋の蜂起の性格を見失わせる可能性もあることから、「東学党の乱」の再挙と「甲午農民戦争」の秋の蜂起(第二次農民戦争)とは区別すべきであるというのが中塚教授の見解である。しかしながら、昭和五八年度検定当時において、「甲午農民戦争」と「東学党の乱」を厳密に区別する見解が一般的であったということはできず、両者を区別せずに「東学党の乱」と表記されることも少なくなかった。すなわち、中塚教授自身、前掲「万有百科大事典6」において、「甲午農民戦争(東学党の乱)」と記述し、この点につき、「いきなり甲午農民戦争と書いても一般の読者が分らないということを慮ってこういう表記をした」と証言しているし、従来、日本では一般的に「東学党の乱」という呼称が用いられてきたとしている。また、姜教授も、前掲「甲午農民戦争」において「従来日本では、この農民戦争を『東学の乱』または『東学匪乱』と呼びならわされてきており、今もおおくの場合それが踏襲されてきている。」としている。藤村教授も、「日本外交史辞典」(外務省外交史料館、昭和五四年、乙第六一号証)の「日清戦争」の項において、「民間宗教の一派東学は、地域的に分散した農民の不満を結合し、九四年春、朝鮮南部を中心に大規模な反乱を起こした(東学党の乱または甲午農民戦争)。」として両者を必ずしも区別しない記述をしている。更に、原告も、昭和五五年度検定申請の教科用図書原稿本においては「東学党の乱」について記載し、これと区別された農民戦争について記載をしていない。

(3) 元皇学館大学教授坂本夏男は、その証言において、東学党の乱の初発と再挙との間には、清国及び日本の兵を退去させることを前提に全州和約が締結され、また、農繁期に入って農民軍が帰郷したため、両者の間に三、四か月の空白があるが、東学党の乱の再挙は、初発において東学の組織を利用して農民軍が組織化されていたことが重要な要因となっており、再挙も初発と同様に東学道徒である全琫準に指導された農民軍が主力となった点に変わりはなく、再挙は初発なくして全く別個に起こったものではないので、両者は蜂起の対象を異にするものの、その性格は一貫性を有すると考えられるとしている。したがって、教科書の記述として、東学党の乱の初発は、日清戦争の契機となった事件でもあり、再挙を記述するならば初発を記述せざるを得ないとしている。

(4) 山辺健太郎著「日韓併合小史」(岩波書店、昭和四一年、乙第五六号証)、松下芳男著「近代の戦争1 日清戦争」(人物往来社、昭和四一年、乙第六六号証)、梶村秀樹著「甲午農民戦争と『甲午改革』」(勁草書房、渡部学編「朝鮮近代史」所収、昭和四三年、乙第六七号証)、姜在彦著「甲午農民戦争」(岩波書店、岩波講座「世界歴史22」所収、昭和四四年、乙第六八号証)、藤村道生著「日清戦争」(岩波書店、昭和四八年、乙第五七号証)、宇野俊一著「日本の歴史26日清・日露」(小学館、昭和五一年、乙第五九号証)の記述をみると、いずれも甲午農民戦争又は東学党の乱の初発と再挙について書かれており、再挙についてのみ記述されているものはない。また、隈谷三喜男著「日本の歴史22 大日本帝国の試煉」(中央公論社、昭和四一年、乙第五八号証)には初発の記述はあるが再挙の記述はない。

なお、本件検定のあった昭和五八年度及びその前年度の検定で合格した高校日本史教科書は、一五冊であるが、その中で初発に触れずに再挙のみについて記述する教科書はなく、初発と再挙を取り上げた一冊(三省堂「高校日本史改訂版」―乙第六三号証)及び本件教科書を除き、その余の教科書は、甲午農民戦争又は東学党の乱の初発のみについて記述している。

(三) そこで、本件検定意見が合理的根拠を有するものといえるか否かについて検討する。

なるほど、さきに(二)(1)及び(2)において認定した中塚教授の見解及びこれに対する学界の状況(特に朴教授の著作)を前提とすれば、本件原稿記述が、東学党の乱の再挙を含むいわゆる甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)のみならず、その前後に起きた組織的・散発的なあらゆる形態での朝鮮人民による日本軍に対する総ての抵抗を指すものであることが理解できるといえよう。しかしながら、右の記述の前後に文脈のみから考えると、高校生にとって右記述における「反日抵抗」が何を指し示すものか客観的に明らかでないとする検定理由にも根拠がないということはできない。

また、中塚教授の説くように、とりわけ甲午農民戦争の秋の蜂起が主に朝鮮の封建支配階級に向けられていたのに対し、秋の蜂起が日本の侵略に反対する民族解放闘争の性格を著しく強めていたという史実にかんがみ、日本の朝鮮に対する従属化政策を実現しようとした日清戦争の歴史的位置付けをより正確に理解させようとする教育的配慮に照らせば、朝鮮の内政問題であり、単なる宗教戦争にすぎないとの誤解を生み易い「東学党の乱」の記述を削り、その代わりに中塚教授らの最新の研究に基づき日清戦争中に侵略してきた日本軍に対して朝鮮人民が各地で抵抗した事実を端的に記述した本件原稿記述にはそれ相当の学問的根拠と教育的配慮があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている本件原稿記述に対し、修正意見を付することについてはその妥当性について批判の余地のあるところであろう。

しかしながら、他方、本件原稿記述にいう「反日抵抗」も、東学党の乱の再挙を含む甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)を中心とするものであること、それ以外の反日抵抗については昭和五八年度検定当時の学界でも研究が十分でなかったこと(朴教授の前記論文も、発表直後でいまだその評価が定っていたとはいい難い。)、甲午農民戦争と東学党の乱を峻別する考えが学界において完全に一般化していたとまではいえず、「甲午農民戦争」を「東学党の乱」と表記するものも相当あったことに照らすと、本件原稿記述の「人民の反日抵抗」を「東学党の乱」の再挙を指すものと理解することが合理的根拠を欠くとすることはできず、また、さきに(二)(4)において認定したとおり、本件検定のあった昭和五八年度及びその前年度の検定で合格した高校日本史教科書にあっては、その大多数が、甲午農民戦争あるいは東学党の乱の初発のみについて記述していること、一般概説書でも同様であることに、さきに(二)(3)において認定した坂本教授の見解を合わせ考えれば、本件原稿記述について東学党の乱の初発を記述しないで再挙のみを記述することは、生徒にとって日清戦争を巡る日本と朝鮮の基本的情勢や戦争の歴史的経過についての理解を困難にするだけでなく誤解を生じさせる虞があって、教科書の記述としては不適切である、とした検定理由が合理的根拠を欠くということはできず、したがって、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会通念上著しく妥当性を欠くものとすることはできない。

2  日本軍の残虐行為に関する記述について

(一) <証拠>によると、昭和五五年度検定済教科書の「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。」との脚注の記述を、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。」と書き換えようとする改訂検定申請及び同教科書の他の箇所の脚注に「このために、日本軍はいたるところで住民を殺害したり、村落を焼きはらったり、婦人をはずかしめるものなど、中国人の生命・貞操・財産などにはかりしれないほど多大の損害をあたえた。」という記述を挿入しようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、「中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった」あるいは「婦人をはずかしめるもの」という記述については、このような事実があったことは認められるけれども、このような出来事は人類の歴史上、どの時代のどの戦場にも起こったことであり、原告もその著書「太平洋戦争」において「古代以来の世界的共通慣行例から日本軍もまたもれるものではなかった。」とする認識をもっているようであるから、特に日本軍の場合だけこれを取り上げるのは選択と扱いの上で問題があり、本件原稿記述は、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(2) 学習指導を進める上に必要なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」及び「(4) 全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと。」に欠けるものとして、修正意見を付したことが認められる。

(二) <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 一橋大学教授藤原彰は、一五年戦争期とりわけ南京事件を含む日中戦争期の日本軍は、日清・日露戦争期の日本軍と比較しても、また、当時の他国の軍隊と比較しても、強姦の常態化という点で、きわだった特徴を有していたとし、その史料として、「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」(河出書房新社、洞富雄編「日中戦争史資料8 南京事件Ⅰ」所載、甲第二五二号証)、稲葉正夫編「岡村寧次大将資料(上)」(原書房、昭和四五年、甲第二五三号証)を挙げ、また、日本軍に特有の従軍慰安婦の存在自体が、一五年戦争期の日本軍にとりわけ多くの強姦事件が発生したことを間接的に示しているとする。そして、愛知大学教授江口圭一も同旨の見解を有している。

また、原告は、軍が積極的にも消極的にも日本兵に強姦を許容して士気を鼓舞したとし、その史料として、「小川平吉関係文書1」(みすず書房、昭和四八年、甲第二六〇号証)、「極東国際軍事裁判判決」(河出書房新社、洞富雄編「日中戦争史資料8 南京事件Ⅰ」所載、甲第二六一号証)、松本重治著「上海時代(下)」(中央公論社、昭和五〇年、甲第三九〇号証)、「地のさざめごと 旧制静岡高等学校戦没者遺稿集」(講談社、昭和四三年、甲第三九一号証)、田村泰次郎著「蝗」(新潮社、昭和四〇年、甲第三九二号証の一)を挙げている。

なお、藤原教授は、秦郁彦著「南京事件」(中央公論社、昭和六一年、甲第二四八号証)に「略奪、強姦を餌に兵を進撃させた往年の蒙古軍を思わせるが、見方によっては、昭和の日本軍は一段と悪質だった。建前では、強姦が発覚すると処罰されることになっていたので、証拠滅失のため、ついでに殺害、放火してしまう例が多かったからである。」とあることを根拠の一つとして挙げるが、同書は、発行時期に照らし、昭和五八年度の学界を構成するものとしては考慮し得ない。

更に、藤原教授は、日本軍の強姦行為について教科書に記述することの教育的意義として次の二点を挙げている。第一に、日本軍による強姦行為は、中国戦線における日本の戦争犯罪の重要な一環をなしていたばかりでなく、現在に至るまで中国側に深い傷痕を残しているという深刻な現実に対する配慮の問題であるとする。第二に、強姦問題は、日本の中国に対する侵略戦争であったという一五年戦争の本質や日本軍の性格・体質を理解する上で重要な素材を提供しているとする。すなわち、一五年戦争が大義名分を持たず、明確な目的を欠くものであったため、駆り出された兵士には自暴自棄的な雰囲気がひろがり、強姦等の非人間的な蛮行を生み出す土壤があったのであり、また、日本軍は、兵士の自発性を徹底的に封殺する抑圧的管理制度をとり、兵士に対し非人間的処遇を行っていたことから兵士たちには軍隊に対する不満がうっ積したが、軍幹部は日本兵による中国民衆に対する強姦等の非行を黙認することによって軍隊内の秩序の維持を図ろうしたのであるとしている。

(2) 他方、原告は、「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の一)において、南京事件についての記述に関し、日本兵の残虐行為の責任が軍幹部にあることを述べる文脈中で、「軍の平素からのあり方が戦時かような残虐性を発揮する必然性を内在させていたこと、たとい形式的な『上官の制止』があったとしても、軍隊において兵卒の『反抗力を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛大であったり、なんらかの機会に過度の性的燥宴を許したりする』古代以来の世界的共通慣行例から日本軍もまたもれるものでなかったのは『慰安所』公設の事実に徴し明白であること等から考え、南京その他作戦地での残虐行為(特に性関係の)について最大の責任が軍幹部にあるのを否定するわけにいかない。」と述べており、「反抗力を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛大であったり、なんらかの機会に過度の性的燥宴を許したりする」のが広く世界に見られる軍隊固有の本性であるとしている。また、藤原教授も、その意見書(甲第二三八号証)において、一般社会から隔離された閉鎖的な集団である軍隊の成員が、特に戦地において強姦等の非行に走る傾向があるのは、一般論としては否定することができないとしている。

更に、児島襄は、その証言において、戦争という特異な状況の下での婦人凌辱の事例の実態に関して正確に把握し得る資料は、ほとんど存在せず、その正確な実態というものは把握できず、したがって、他の戦争の事例と比較して日中戦争における強姦が特に多かったと断定的に論ずることは非常に難しいと考えざるを得ないとする。前掲「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」においては、いくつかの強姦の事例が挙げられているものの、他方「一般ニ士気旺盛ニシテ、軍紀・風紀ハ概ネ厳粛ニ保持セラレアル」とも記されている。

(三)  そこで、検定意見が合理的根拠を持つものであるかどうか否かについて検討する。

南京事件を含む一五年戦争の中で日本兵による中国婦人の強姦ないし凌辱の事例があったことは、被告においても認めるところであるし、さきに(二)(1)において認定したとおり、一五年戦争期の日本軍の強姦行為がきわだった特徴を有していたとし、日本軍の強姦行為について教科書に記述することに相当な教育的意義があるとする見解が有力に主張されていることにかんがみれば、住民殺害、村落への放火、強姦と併記する原稿記述に対し、文部大臣がその中で特に強姦のみの削除を求める修正意見を付したことについて、これを積極的に肯認し得る事由を見出すことは困難といわざるを得ない。しかしながら、他方、前記(二)(2)において判示したとおり、一五年戦争期の日本軍の強姦行為をもってきわだって特徴的とすることに慎重な見解もあること(双方の見解の優劣は、当裁判所のよく判断し得るところではない。)及びその他前記(二)(2)摘示の点にかんがみれば、日本軍の強姦行為を記述することが特定の事項を特別に強調することになるという趣旨の検定意見が合理的根拠を欠くものであるとは断じ得ず、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会通念上著しく不当であったとまではいうことはできない。

3  七三一部隊に関する記述について

(一) <証拠>によると、昭和五五年度検定合格済教科書の脚注に「またハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」との記述を挿入しようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、いわゆる七三一部隊については、学界の現状は史料収集の段階であって、専門的学術研究が発表されるまでに至っていないので、これを教科書に取り上げることは時機尚早であるとして、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(2) 学習指導を進める上に必要なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」に欠けるとして、修正意見を付したことが認められる。

なお、検定意見が、右七三一部隊の存在や日本軍による生体実験の事実を否定する趣旨ではなく、七三一部隊に関する事実を教科書に記述する教育的意義を否定する趣旨でもないことは、前掲甲第一七号証、証人時野谷滋の証言によって認められる。

(二) <証拠>によると、次の事実が認められる。

(1) 昭和五八年度検定当時までに公刊された七三一部隊に関する文献、資料は、愛知大学教授江口圭一の挙げるところによれば、従前公刊されたものの復刻版二点及び改訂版を含め三六点の多きに及んでいる。中でも昭和五六年から昭和五八年にかけて作家森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全三巻(一巻及び二巻は光文社―後に角川書店、三巻は角川書店、甲第二五六ないし第二五八号証、乙第一〇八、第一〇九、第一一一号証)は、①旧七三一部隊員の証言、②旧七三一部隊幹部に対する尋問調書を含むアメリカ軍の資料、③ハバロフスク軍事裁判記録、④旧七三一部隊幹部による医学学術論文、⑤中国における取材などを総合的に検討して七三一部隊の実態を詳細に描いたもので、大きな反響を呼び、特にこれ以後七三一部隊は世人の注目を集めるに至った。その他、七三一部隊については、新聞、テレビ等でも数多く報道されている。

また、七三一部隊の存在につき、昭和五八年度検定当時発表されていた学術書としては、原告著「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の一)、長崎大学助教授(現教授)常石敬一著「消えた細菌戦部隊―関東軍第七三一部隊―」(海鳴社、昭和五六年、甲第二七三号証)、右常石敬一助教授及びジャーナリストの朝野富三の共著「細菌戦部隊と自決した二人の医学者」(新潮社、昭和五七年、甲第二五五号証資料一の二)があり、外国での文献としては、ジョン・パウエルの「歴史の隠された一章」と題する論文(「悪魔の飽食ノート」収載、甲第二五五号証資料一の三)がある。右の「消えた細菌戦部隊」は、ハバロフスク軍事裁判記録を基本とし、日本の医学、軍医学関係文献その他を探索して、七三一部隊の全体像を描いたもので、江口教授によると、同書は、七三一部隊において生体解剖がなされていたことを自然科学史研究者の立場から論証した点に特色があるとされる。

江口教授は、現代史については、専門的研究者は限られており、専門的研究者以外の作家、ジャーナリスト又は一般人によって現代史研究・叙述の優れた作品が数多く生み出されていること、現代史上の諸事件・史実については、その細部に至るまでの全容が完全に解明されているというケースは例外であること、実際に教科書では必ずしも学問的に究明されていない事件でも記述されていることから、専門的学術研究が発表されていないとしても、教科書に七三一部隊を記述することはなんら差し支えないというべきところ、七三一部隊についての本件原稿記述の内容は、前掲「太平洋戦争」で既に確認されており、昭和五八年度検定当時の学界では、右のような文献ないし資料、特に前掲の「悪魔の飽食」及び「消えた細菌戦部隊」によって更に具体的に解明されていたとする。森村も、「悪魔の飽食ノート」(晩聲社、昭和五七年、甲第二六四号証、乙第一一〇号証)において、「ハルピン市南方二〇キロの荒野の一角に本拠を定めた七三一本部には多数のマルタがハルピン憲兵隊本部や同特務機関によって絶えず供給され、二日に三体のハイペースで細菌実験、毒ガス実験の生体材料となって殺された。実験の中には、冷水を浴びせた身体を零下三五度を超す極寒の大気に晒す『凍傷実験』や、ペストの生菌を注射し、発病から死に至るまで克明に記録する実験等があ」り(「マルタ」とは、生体実験の対象とされた捕虜を指している。)、このことは既刊の刊行物によって判明していたとし、同様の見解を明らかにしている。

(2) 他方、拓殖大学教授秦郁彦は、七三一部隊に関する前記著作及びその資・史料とされた文献について次のとおりの見解を有している。

① 資料的価値が高いと思われる旧日本軍自体における公式の資料は、終戦時に滅失されたといわれており、いまだに発見されていない。

② 前掲「悪魔の飽食」及び「消えた細菌戦部隊」の基礎資料とされた「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ關スル公判書類」(外國語圖書出版所、昭和二五年、乙第一一八号証―甲第二六七号証はその復刻版)には、ハバロフスクにおいて行われた七三一部隊関係者の軍事裁判の尋問調書、起訴理由書、公判記録、判決文などが収録されているが、この書物は、非公開裁判の記録の一部とされるものであるうえ、これには、通常この種のものに付されている奥付・序文がないため、訳者、日本での出版社、発行年など書物の来歴を窺うことができず、また、モスクワで印刷されたものがどうして当時アメリカの占領下にあった日本で発行されたのかなどの点で史料としての疑問が多く、原本に当たり検証することもできない同書を学術的に利用するには慎重な検討が必要である(なお、右公判書類については、森村も、前掲「悪魔の飽食ノート」において、「ハバロフスク軍事裁判記録は、あくまで勝者が敗者を裁いたドキュメントであり、さらに供述証言に応じた元隊員たちの複雑なおもわくもからんで、七三一の本質をうかがわせるものではあっても同部隊の正確な全容を示すものではない。」としている。)。

③ 前掲「悪魔の飽食」の基礎資料の一つとされている旧七三一部隊幹部に対する尋問をまとめたアメリカ軍による調査記録は、その史料価値は高いと考えられるものの、当時占領下という状況で米軍が尋問した結果であるから、その任意性、信ぴょう性、供述された範囲(生体実験等重要部分を欠く。)等に疑問があり、慎重に扱うことが必要であるところ、これらは、昭和五六、七年ころに初めてアメリカ合衆国で研究者が一般に利用できるような状態に立ち至ったのであり、昭和五八年度検定以前には、我が国では、同記録のごく一部分が紹介されていたにすぎず、いまだ十分な史料批判が行われていたということはできない。

④ 前掲「悪魔の飽食」における旧七三一部隊員の証言に基づく部分は、内容が主に医学にかかわる問題であるのに、元隊員の中でも医師でない下級隊員(そのほとんどが匿名)の証言がほとんどで、医師が中心となる上級隊員の証言が全く欠けている点、文書的裏付けに欠ける点(なお、生体解剖の現場写真は偽写真であった。)等で信頼性に問題があって、無条件にこれを利用することは危険である。また、他に、関係者の証言を収録した文献、資料が多数あるものの、いずれも下級隊員の手記であったり、あるいはジャーナリストが伝文や風評をまとめたりしたものであって、史料の信用性を十分検討した学術的研究書として発表したものではない。

そして、歴史叙述については、史料を厳密に考証した上、必ずその裏付けを採って行われることが要請されるところ、前掲「太平洋戦争」は、前掲ハバロフスク軍事裁判記録を基本とし、他には史料として問題のある非学術的雑誌記事に基づいて叙述したにとどまるし、常石助教授の著作も、学術的研究書に付されるのが通例である注が付されていないという点で形式が不十分であり、当該記述がいかなる文献資料に基づいたものであるかを第三者において照合可能なものとなっていないうえ、重要な箇所に全くの推測に基づく所があるなど問題があるので、結局、昭和五八年度検定当時には、右要請に応えた専門的学術研究が発表されるに至っていなかった、といわざるをえず、いわゆるフエル・レポート(石井部隊長らが生体実験を行ったことを認めたといわれるアメリカ軍史料)が発見されていない昭和五八年度検定当時においては、七三一部隊に関する研究はいまだ不十分であって、教科書に記述し得るほど、学術的研究としてはまとまっていなかったというべきである。

なお、森村も、前掲「悪魔の飽食ノート」において、前掲「悪魔の飽食」出版までは、七三一部隊関係の本もあったが、信頼すべきものは二点しかない旨述べ、また、「七三一のシステムや個々の実験の具体的内容と種類、およびその担当責任者名、実験諸設備、細菌工場の実態、さらにマルタ供給のルートとその収監設備、実験の犠牲者が『三〇〇〇人以上』とされる根拠等については、これまでどのような文献資料も明らかにしていなかった。」とし、「七三一の全体像は先人の諸労作にもかかわらず、依然として曖昧模糊たる霧のかなたに烟っていた」と記している。

(三)  そこで、本件検定意見が合理的根拠を有するものといえるか否かについて検討する。

右に認定したとおり、昭和五八年度検定当時、史料として問題がなくはなかったにせよ、いわゆる七三一部隊に関しては既に数多くの文献・資料が公刊されていたこと、中でも前掲「悪魔の飽食」、「消えた細菌戦部隊」を高く評価し、昭和五八年度検定当時の日本近・現代史の学界においては、七三一部隊に関し本件原稿記述に表現された程度の事実はすでに十分確認されていたとする見解があること等に照らせば、本件原稿記述程度の七三一部隊に関する記述についてその削除を求める修正意見を付すことが果たして当を得たものといえるかは、問題とする余地のあるところであろう。しかしながら、他方、当時の学界においては、七三一部隊に関する学術的研究はいまだ不十分であったとして高等学校の教科書においてこの点についての事実を記述することに慎重であるべきものとする見解もあること(これら双方の学問的見解の優劣については、当裁判所の判断し得るところではない。)にかんがみれば、七三一部隊を教科書に取り上げることは時機尚早であるとする検定理由が合理的根拠を欠くということはできず、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会通念上著しく妥当性を欠くものと断ずることはできない。

4  沖縄戦に関する記述について

(一) <証拠>によると、昭和五五年度検定済教科書の「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた。」との脚注の記述を「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火の中で非業の死をとげたが、その中には日本軍のために殺された人も少なくなかった。」との記述に書き換えようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、沖縄戦における沖縄県民の犠牲については、沖縄戦の記述の一環として、県民が犠牲になったことの全貌が客観的に理解できるようにするため、最も多くの犠牲者を生じさせた「集団自決」のことを書き加える必要があり、右申請に係る本件原稿記述は、検定基準に照らし、必要条件である[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)の「(2) 学習指導を進める上に必要なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」及び「(4) 全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと。」に欠けるとして、修正意見を付したことが認められる。

(二) <証拠>を総合すると、沖縄戦に関する昭和五八年度検定当時の学界の状況について、次の事実を認めることができる。

(1) 沖縄戦の特徴について

沖縄戦は、住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したこと、また、住民犠牲の中でも、日本軍によって殺害された人が少なくなかったこと、更に、各地で住民の集団自決が発生したことが、沖縄戦の大きな特徴であるとされている。この点について、沖縄戦の体験者であり広報学専攻の琉球大学教授大田昌秀は、「総史沖縄戦」(岩波書店、昭和五七年、甲第二八七号証、乙第一二三号証)において、「守備軍は、住民の守護神たりえなかったのみではない。直接間接に軍との共死を強要し、あまっさえ数百人(一〇〇〇人を越すともいわれる)にのぼる住民にスパイの汚名を着せて殺害までした。」とし、沖縄戦における日本軍による住民殺害は、軍隊が一般民衆を守るものではないという教訓を生み出す事実であるとしている。「沖縄縣史」第8巻各論編7(琉球政府、昭和四六年、乙第一三八号証)も、沖縄戦通史第三章「戦場下の沖縄県民」の中で第七節として「スパイ嫌疑と残虐」という項目を立てて、各地における日本軍の住民に対するスパイ嫌疑と惨殺の事例を記述しているほか、歴史学研究会編「太平洋戦争史5」(青木書店、昭和四八年、乙第一三九号証)も、「沖縄県民の悲劇は敵軍である米軍の残虐行為にとどまらず、『友軍』である日本軍の残虐行為にも苦しめられたことにある。」として、これを裏付けている。

また、大田教授は、集団自決について、前掲「総史沖縄戦」の中で、「沖縄戦のいま一つの特徴は、各地で住民の<集団自決>が発生したことである。」「慶良間列島中の渡嘉敷、座間味、慶留間の島々で地元住民が集団自決を決行したことである。しかも、自決の方法は<むごい>というよりない、文字どおり、目を覆わしめるものがあった。老いた夫妻や親子、兄弟が草刈り鎌や鍬、あるいは手榴弾などでお互いに殺しあったり、みんなで手を取り合って<猫いらず>をあおるなどして一せいに死んでしまったからである。守備隊長が『命令した』とか『いや、命令はしていない』といったぐあいに、集団自決の全容については、今も真相は不明のままである。だが、多数の住民が集団自決をした事実は、否定しようもない。」「狭小な島嶼における戦闘は、遅かれ早かれ、避けようもなく住民に物心両面で甚大な犠牲を強いる結果となることは十分予測できる。その意味では、慶良間列島の戦闘は、その後につづく沖縄戦における軍・民<玉砕>の態様をあらゆる面で象徴的に示したものといえる。」と述べて、この点を明らかにしている。

(2) 日本軍による住民加害について

沖縄戦の一大特徴とみられる住民殺害を含む日本軍による多数の住民加害が発生した原因については、日本軍の地元住民に対する過度の不信感にあるとされており、このことは、昭和二〇年四月九日に発せられ、同年五月五日に長勇参謀長名で公布された「爾今軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」との沖縄守備軍司令部の命令や「島嶼作戦においては、原住民に気を許してはならぬ。原住民は敵が上陸してきたとき敵を誘導し、スパイ行為をするからである」との日本軍部隊の訓令などからも窺われるとおり、日本軍が沖縄県民をスパイ視していた事実によっても明らかであるとされている。

日本軍による住民加害の事実を、国作成に係る公的文献を中心にみると、次のとおりである。

① 日本軍による住民虐殺

「沖縄作戦講話録」(陸上自衛隊幹部学校、昭和三六年、甲第三一一号証、乙第一三七号証、以下「講話録」という。)所掲の厚生省調査では、死没者として「友軍よりの射殺」の事実が、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(陸上自衛隊幹部学校、昭和三五年、甲第三三二号証、以下「史実資料」という。)では、戦闘協力者として「正当な理由なく、友軍敗残兵に殺害されたもの」のあることがそれぞれ挙げられている。

元大本営船舶参謀であった厚生省引揚援護局勤務の事務官馬淵新治は、講話録において、「軍側特に下級幹部において、戦勢の不利に赴くに従い、各地で住民のスパイ嫌疑による斬殺が各所に散見され、戦後の今も語りつがれている」、「友軍による殺害は既述したスパイ嫌疑によるものゝ外、首里戦線崩壊後島尻地区に於て住民が避難中の自然壕に侵入して来た四散部隊が、泣き叫ぶ幼児が敵に発見される動機となるとしてこれを殺害し、或はその母親が強要されて我が子を扼殺した事例があります。特に敵が全く上陸しなかった久米島(沖縄本島を距る約五〇浬の海上にある。)に於て海軍守備隊長が軍に非協力であり、且つスパイの嫌疑があるとして住民を殺害したことは今も虐殺行為の典型として語り続けられている」と述べ、また、史実資料において、「敵上陸以後、所謂『スパイ』嫌疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いているが、目下調査したところによると、在来から沖縄に居住していた住民で軍の活動範囲内で敵に通じたものは皆無と断じて差支えないと思う。」として、日本軍の手による住民虐殺の事実を明らかにしている。

② 壕追出し

講話録では「壕提供」、史実資料では「自己の壕を追い出されて、敵の艦砲、空襲によって死没したもの」がそれぞれ挙げられている。

馬淵は、講話録において、「これらの犠牲者は御承知の首里主陳地帯の崩壊に伴い、第2線陣地につくため、既に逃げ道のない住民が居住する自然壕を取り上げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当あるのであります。」とし、史実資料において、「心ない将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち入り、必要もないのに軍の作戦遂行上の至上命令である、立退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕からの立退きを命じて己の身の安全を図った」、「戦斗が不利となり、島尻地区に軍の主力が後退するに至るや、非戦斗員である住民安住の壕を軍の必要に基いて、強制収用して、壕外に放逐し、無辜の老幼婦女子を死地に投じて多数の犠牲者を生ぜしめている。」として、日本兵による住民の壕からの追出しの事実を明らかにしている。

③ 食糧強奪

史実資料によると、馬淵は、日本軍将兵のうちには、「ただでさえ貧弱極まりない住民の個人の非常用糧食を徴発と称して掠奪するもの」のあったことを挙げ、食糧強奪の事実のあったことを明らかにしている。

④ 自決の強要

史実資料には、「友軍より自決を強要されたもの」が挙げられている。また、前掲「太平洋戦争史5」においては、渡嘉敷村及び座間味村における集団自決は守備隊隊長の命令によるものとし、右の集団自決による犠牲者数合計六八三人を「日本軍の手によって殺害された沖縄県民の数」の中に算入している。前掲「沖縄縣史」第8巻各論編7も、「第七節スパイ嫌疑と残虐」の中で、渡嘉敷島、座間味島及び阿嘉島の集団自決の例を挙げ、守備隊隊長の命令によって住民が集団的に、自決し、あるいは自決を強要されたとしている(なお、隊長命令の存否については、後記(4)参照。)。

以上のとおり、日本軍による犠牲者として挙げられるものの中には、日本軍により直接殺害された者と、間接的に日本軍によって死を強制されたものなどがある。しかし、間接的に死を強制されたものを、日本軍により直接射殺又は斬殺されたものと犠牲の態様において異なるとして、日本軍による犠牲者ではないと区別することはできないとする見解も存する。

なお、証人一冨襄は、沖縄戦は軍・県・民が一体となり一致協力して遂行したものであり、日本軍が住民を殺害したとは信じ難く、仮に、軍人による殺害があったとしても極めて特異な事象であって、日本軍自体が行ったものとは評価し得ない旨、日本軍が住民を壕から追い出し、あるいはこれに自決を強要したとする確実な資料はなく、仮に、これがあったとしても、日本軍のために殺されたと表現するのは当たらない旨供述するが、同証人の証言全体の趣旨に照らせば、右供述部分は、日本軍の行動を擁護する立場から同人の推測ないし個人的信念を述べたものというほかなく、沖縄戦に関する学界の客観的状況を証言するものとは認められないから、右供述部分は採用の限りでない。

(3) 「集団自決」について

大田教授は、さきに述べたとおり、前掲「総史沖縄戦」において、沖縄戦の一つの特徴として、住民の「集団自決」の発生を挙げ、また、「沖縄―戦争と平和」(日本社会党、昭和五七年、甲第二九一号証)、「沖縄戦とは何か」(久米書房、昭和六〇年、甲第二九〇号証)、「慰霊の塔」(那覇出版社、昭和六〇年、甲第三〇六号証)、「これが沖縄戦だ」(琉球新報社、昭和五二年、甲第三一〇号証)の各著述においても、「集団自決」の事実を大きく取り上げている。更に、原告も、当審の主張において、「集団自決」が、それ自体県民の犠牲の痛ましい例として、日本軍による住民殺害と並ぶ沖縄戦の特徴であるといえるとしているところである。

「集団自決」の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘されている。そして、「集団自決」の実態については、住民は、生き残れる展望のない絶望的な情況下で、様々な要因から「集団自決」に追い込まれたもので、これを戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものとして美化するのは当たらないとするのが一般的であり、したがって、教科書に単に「集団自決」と記述するときは、住民が他の要因等とは関係なしに本来自発的に自らの意思で自殺したものとの誤解を招く虞があり、不適切であると指摘されている。

(4) 犠牲となった住民の数について

沖縄戦においては、一家全滅の例が多く、また戦争中に戸籍の多くが焼失したこともあって、住民の犠牲者数を明らかにする客観的資料は存在せず、住民の犠牲の全貌を明らかにすることは困難であるといわれているが、各資料にみられる犠牲者数ないしはその内訳等は次のとおりである。

沖縄県援護課の資料によると、沖縄県民の死没者総数は、約九万四〇〇〇人とされているが、この数字は、沖縄戦直前の昭和一九年一二月の沖縄群島の人口(宮古八重山を除く。)四九万一九一二人から昭和二一年一月の沖縄群島の人口三一万五七七五人、県外疎開者約六万二〇〇〇人及び沖縄出身軍人軍属死没者二万八二二八人を差し引いて、沖縄群島の県民死没者推定数として八万五九〇九人を算出し、これに宮古八重山の死没者及び調査もれとして見込んだ右数の一割に当たる八五〇九人を加えた九万四四九九人という数字から得たものである。

前掲の講話録所掲の厚生省調査によると、遺家族援護法の戦闘協力者として昭和二五年三月末までに申告された陸軍関係死没者四万八五〇九人のうち一四才未満の死没者一万一四八三人についてこれを死亡原因別に区分して、「友軍よりの射殺」一四人、「自決」三一三人、この他、「壕提供」一万〇一〇一人、「食糧提供」七六人等となるとされている。さきに述べたとおり、馬淵は、かかる数字を前提に、右の「壕提供」には、日本軍が「既に逃げ道のない住民が居住する自然壕を取り上げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したたことに基因するものが相当ある」としている。

前掲「沖縄縣史」第8巻各論編7に挙げられている事例を合算すると、住民殺害が八〇人余、「集団自決」が六一三人と推計される。また、「観光コースでない沖縄」(高文研、昭和五八年、乙第一四〇号証)所掲の一覧表によると、日本軍による住民殺害は約一七八人、「集団自決」は喜屋武半島では数百人、その他の地域では約六六三人と推計される。更に、「平和への証言―沖縄県立平和祈念資料館ガイドブック」(沖縄県生活福祉部援護課、昭和五八年、乙第一四一号証)所掲の一覧表によると、日本軍による住民殺害(壕追出しや自決強要を含む)は少なくとも一一〇人、「集団自決」は五一〇人余と推計される。もっとも、同表では、「南部一帯では、スパイ容疑処刑、壕追出し、自決強要、食糧略奪、幼児虐殺など日本軍による住民犠牲が頻発しているが現在なおその正確な数は確定されていない。」とされている。

大田教授は、一般図書、沖縄県の各市町村史(誌)、防衛庁戦史室所蔵資料等の文献に基づき、沖縄戦の死者のうち、日本軍によって直接に殺害された住民は少なくとも二九八人、「集団自決」による者(個別の自決を含む)は少なくとも八二四人でそのうち守備軍将兵による自決命令によるものとされているもの(渡嘉敷島、座間味島の例)は四八三人、日本軍による壕追出しによって死亡した者は少なくとも二九一人、日本軍によって殺害された朝鮮人は少なくとも一一一人、守備隊兵士によって強制的に移住させられたためにマラリアによって死亡した住民は少なくとも四三五〇人であるとしている(なお、大田教授は、自決命令があったとされている「集団自決」の中に渡嘉敷島の例を挙げているが、本件検定当時の学界においては、自決命令の存在を否定ないし疑問視する見解もあり、必ずしも学界が自決命令の存在を肯定する見解で固まっていたということはできない。)。もっとも、日本軍によって直接殺害された住民の数は、実数では一〇〇〇人を超えるという見解もあり、大田教授自身、八〇〇人は超えると考えられるとしている。

(三) 右に認定した昭和五八年度検定当時の学界の状況等にかんがみると、沖縄戦における日本軍による住民の犠牲者の中には、日本軍によって直接殺害された者のほか、日本軍によって自決を強要された者、日本軍によって壕を追い出され、あるいは食糧を強奪されたため死亡するに至った者があるとするのが、概ね学界における一般的理解であるということができる。もっとも、「日本軍のために殺された人」との本件原稿記述は、文言上、これら様々な態様の住民犠牲のすべてを指すと理解することは困難であって、単に「日本軍のために殺された人」というときは、日本軍によって直接殺害された人のみを指すものと理解するのが通常であるというべきである。そうすると、右本件原稿記述は、日本軍による住民犠牲の中の住民射殺ないし斬殺の事実を記述したことになるが、かかる事実が一般的に沖縄戦の一大特徴とされる点である以上、右原稿記述について、これを特定の事項を特別に強調し過ぎたものであるとした検定意見が、当を得たものであったかについては、批判の余地があるところといえよう。また、検定意見は、「集団自決」による犠牲者が最も数が多いとするのであるが、住民の犠牲の全貌についての客観的な資料は存在せず、昭和五八年度検定以降現在も住民の犠牲についての調査がいまだに進行中の段階にあること、スパイ嫌疑で殺害された住民の数は一〇〇〇人近くにのぼるとする見解もあること、日本軍による住民犠牲には、直接射殺又は斬殺された人のほか、壕追出し、食糧強奪、自決の強要などにより死亡した人も含まれるとされていることに照らせば、このように断定することには問題があろう。

しかしながら、その後、その要因や実態について徐々に明らかにされるに至ったものの、本件検定当時においては、「集団自決」も沖縄戦の大きな特徴の一つであるとされていたこと、検定意見もあくまでかかる「集団自決」の事実の記述を求めるにすぎず、沖縄戦の一大特徴とされる日本軍による住民殺害の事実を否定するものではなく、また、これについての記述の削除を求めるものではないことにかんがみれば、「集団自決」は様々な要因から発生したものであってこれを犠牲的精神によるものとして美化することがないようにその記述や教育には配慮を要するとしても、文部大臣が、「集団自決」について記述することを求めて、検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、いまだ合理的根拠を欠き著しく不当なものとまですることはできない。

五五七年度正誤訂正申請について

文部大臣が昭和五七年に三省堂の行った正誤訂正申請の受理を拒否したと認めることができないことは、さきに第三、二に判示したとおりであり、文部大臣が右申請の受理を拒否したことを前提とする原告の請求は、その余について判断するまでもなく理由がないことが明らかである。

なるほど、文部省初等中等教育局検定課の検定調査第一係長岸継明が、正誤訂正申請書を持参した三省堂従業員に対し、南京大虐殺に関する申請部分は正誤訂正の要件を充たさないので、右部分の申請の再考を示唆し、これを受けて三省堂従業員が右申請書を持ち帰ったことは、さきに第三、二2において判示したとおりであるが、岸の右示唆が社会通念上相当な範囲を超えたものであって申請の受理の拒否に至ったとみるべき事情があったと認めるに足りる証拠はない。また、さきに第一、三2(三)において認定したとおり、文部大臣は、昭和五七年一一月二四日、昭和五六年度に検定を終えた高等学校の歴史教科書については、正誤訂正の手続によって修正しない旨の談話を発表しており、正誤訂正申請があっても正誤訂正を承認しない趣旨を明らかにしていたということができる。しかしながら、他方、前掲乙第四六号証によると、昭和五七年八月六日の衆議院文教委員会で、文部省初等中等教育局長が、「正誤訂正の申請があれば受け付けないということを申し上げたわけではございません。」と答弁していることが認められ、この事実に照らせば、文部大臣が、正誤訂正申請があった場合に、申請を受理しないことまでも明らかにしていたということはできず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。更に、前掲甲第一三二ないし第一三五号証によると、三省堂以外に幾つかの教科書発行者が正誤訂正を申請したのに対し、いずれも文部大臣がその申請を受理するに至っていないことが認められるが、これをもって、本件において文部大臣が申請の受理を拒否したものということはできない。以上のほか、本件においては、本件記録によって窺われる諸事情を勘案しても、文部大臣が三省堂の行った正誤訂正申請の受理を拒否したと認めるに足りる事情は見出すことはできない。

したがって、三省堂の行った正誤訂正申請がこれまでの正誤訂正制度の運用に照らし正誤訂正の要件に該当するか否か又は文部大臣の検定権限行使における裁量権濫用の違法については、その判断の限りではない。

第七損害賠償義務

一昭和五五年度検定における草莽隊に関する記述箇所に対する文部大臣の検定権限の行使が当該権限を濫用又は逸脱したものであって違法であることは、すでに前記第六、三2に判示したとおりである。

<証拠>によると、右の違法な検定権限の行使によって、原告は、心ならずも原稿記述の修正を余儀なくされ、これにより受忍限度を超える精神的苦痛を受けたことが認められるところ、右精神的苦痛は、諸般の事情にかんがみ、金一〇万円をもって慰藉するのが相当というべきである。

二原告は、昭和五五年度検定における親鸞及び日本の侵略に関する各記述箇所につき、文部大臣の改善意見に基づき教科書調査官から執拗な修正要求を受けてその記述の変更を迫られたことにより、また、二度にわたり法的根拠のない拒否理由書を提出させられたことにより、多大な精神的損害を受けた旨主張する。

しかしながら、仮に、文部大臣の右各改善意見が違法であったとしても、そもそも改善意見は、修正意見とは異なり、修正を行うか否かを著作者ないし発行者の最終的判断に委ねるものであるところ、原告は、「改善意見は検定に関する法令規則によれば、修正しなくても検定手続きを完成する上になんらさしつかえないはずです。改善意見の理解にくいちがいがあったとすれば、そのかぎりでは著者として再検討を加えますが、学問的・教育的配慮の当否にわたるものにあっては、結局は見解の相違というほかなく、そのような論争に応ずる法律上の義務は存しないはずです」との拒否理由書を提出して、文部大臣の右各改善意見に従った修正を行わなかったことは、前示第三、一2に判示したとおりであって、本件全証拠によっても、右各改善意見又はこれらに基づく教科書調査官の説得により、原告が受忍限度を超える精神的苦痛を受けるに至ったとみるべき事情はなんら認めることができない。また、原告の意を受けて、三省堂が二度にわたり右各改善意見に対して、拒否理由書を提出したことは、当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果中には、教科書調査官が原告に対して右書面の提出を強制した旨の原告の主張に沿った供述部分がみられるが、右供述部分は、にわかに採用することができず、他に原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。かえって、文部大臣が聴聞の一環として検定申請者に対し、改善意見に従った修正の拒否理由を記載した書面の提出の機会を与えることは、かかる書面の提出の強制など特段の事情の認められない限り、適正手続の趣旨に沿うもので相当というべきである。

したがって、原告の主張は採用することができず、他に昭和五五年度検定における親鸞及び日本の侵略に関する各記述箇所に対する検定意見により原告が損害を受けたと認めるに足りる証拠はない。

三教科書検定は、被告国の機関である文部大臣がその権限に基づきこれを実施するものであるが、文部大臣及びその職務上の補助者である教科書調査官らは、昭和五五年度検定における草莽隊に関する記述箇所についての前記違法な検定権限の行使について、それぞれ関与したものであり、かつ、本件各証拠によれば同人らはその点について少なくとも過失があったものと認められ、原告は、これにより右損害を被ったものであるから、被告国は、その公務員である同人らによる前記損害を賠償すべき義務がある。

第八結論

以上説示のとおりであって、原告の本訴請求のうち、文部大臣らの前記の違法な検定権限の行使による損害賠償金一〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五九年二月一一日から支払ずみに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は、理由があるから認容し、その余は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を適用し、仮執行の宣言については、相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官加藤和夫 裁判官西謙二 裁判官鹿子木康)

別紙輔佐人目録<省略>

別紙訴訟代理人目録(一)、(二)<省略>

別紙指定代理人目録<省略>

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